ポッポ屋日記

日記的なブログにしたいです

これからの人生について

 

ニホンバトです。

長かった酷暑も彼岸過ぎれば涼しくな……る事もなく、夏日ができるぐらい暑くなってしまった。

…かと思えば今度は一気に寒くなり、秋をすっ飛ばして冬へと急転換してしまった。⛄️❄️

いつ、どのタイミングで出そうかな…?と迷っていた秋物の服が日の目を見ることはなく、上着のモコモコパーカーとインナーウェアを出して一気に防寒フル装備をする状態…毎年毎年「異常気象だね〜」と言ってた気がするが、今年はここ数年で一番の異常気象だと思う。

十数年前までは存在していた四季の原理が人間の手によって崩壊しつつあるんだなぁ…という事を実感しつつも、それでもどうにかして生きていこうとするのが人間。きっと将来日本の四季が完全に消えて夏と冬しか無くなってしまったとしても、人間はどうにか生きていかなくちゃならないんでしょうね。僕もまぁ例外ではないけども。

 

閑話休題、今年の6月に僕は夢が出来たと宣言した。そしてその年の9月末に家庭の事情で抱えていた僕個人の借金を完済した。これで僕の人生を縛るものは無くなり、完全なる自由を得た僕はこれからの人生を好きに生きる事ができるようになった。

でもそれと同時にこれから先をどう生きて行けば良いんだ?という迷いも生まれてしまった。

選択肢の幅が圧倒的に広くて自由過ぎるが故、逆に何をすれば良いのかが分からない。ゲームに例えればサガシリーズやペルソナ、いきなり世界のド真ん中に放り出されるオープンワールドのゲーム等、次に物語を進めるための分かりやすい導線みたいなものが存在しなかったり、何をどう動き、どうするのかもあなたの自由ですよ?と提示されて能動的に動く事を求められるようなゲームが苦手なのと同じ感覚で、今の僕はその広大過ぎる世界の中で一人立ち往生してしまっている

3年前のその当時こそは明日明後日を生きていくのに必死だった。親からの迫害によって精神的に追い詰められていた事で余裕がなかったのもあったけど、少しでも"自分が精神的に落ち着ける環境作りをしよう"という明確な目標があった事で、その実現の為にひたむきに働きながら今を生きる事が出来た。

衣食住の確保と生活のQOLの向上によって精神的にも余裕を持てるようになった僕が次に取り組むべき課題が親から課せられた借金の返済だった。 詳細は省くが家庭の事情によって背負う事になった借金…個人が抱える額としては決して安くなく(寧ろ大金)、契約時の設定ミスによって滞りなく返済できたとしても完済は僕が32歳の時に終わるという地獄も地獄な状況…それでも僕はこの業を背負って行こうという覚悟を持っていたから、借金の返済という行為自体に対する懸念や苦悶はそれ程なかった。

ただ本当にありがたい事にそんな僕の覚悟に共感した周りの人達からの支援のおかげで、僕の借金返済がスムーズに、より短期間で終わるような寛大な配慮をして頂けた。そのおかげで2021年の6月から始まった借金の本格返済は2年3ヶ月後の2023年9月を持って終了した。借金自体は2019年の秋頃に抱え始めた為、4年の歳月を掛けて完済した事になる。

4年…4年という年数自体は確かに長い、だが本来なら10年掛けて完済するはずだった借金がたったの4年で完済する事ができた。それによって6年分の余剰が持てるようになった。つまりこれから先の6年、僕が32歳になるまでの間は自分の人生を自分の好きなように、生き方を決める事が出来るようになる。今はそのスタートラインに立ち始めたばっかりだ。これから先をどう生きるか?に迷いが出始めるのもある意味では必然なのかもしれない。

だが逆に言うとその4年間という時間の中で「借金の完済」という大義が自分の中にはあって、そういった長期的に成すべき目標があったからこそ、ブレずに今を生きる事ができていたのかもしれない…と思う部分も今振り返ってみればなくはなかった。

皮肉な事に親から背負わされていたその借金自体が自分の今を生きる動機に繋がっていた…と思うと、理由もなく人生を生きるのって結構難しいんだな…と感じる事になった。

 

だったら冒頭でも書いたように夢を叶えるために生きれば良いじゃないか!と思う人もいるだろう。僕も現時点ではそうするべきだと思っている。しかし、その目標設定として掲げた夢が本当に自分が叶えたいと心の底から願う夢だと自信を持って言えるのか?と問われると、正直「そうだ!」と胸を張って言える確証がないのが本音だったりもする。

思えば、僕には叶えたい夢や目標というものがそれまで一切なかった。なりたい職業や憧れの夢…みたいなものを考えた事は一度もなく、とりあえず学校に通って、とりあえず勉強して、とりあえず就職先を決めて、とりあえず働く。「自分」というものを持っていなかった自分は親や周りの人の言葉に自分の精神状態が左右され、流し流され生きてきたようなあまりにも平坦で無個性が過ぎる人生だった。

意外と世の中ってそういう人が多いんじゃないのかな?って個人的にはそう思ってて、人生100年時代と言われる今の世の中で、人生の1/5も生きてない状態の中で夢だとか目標設定みたいなものを決めなくてはならなくて、その為に必死になって勉強して、社会に出て荒波に揉まれるように今を生きて人生を全うしなければならない。

成人をするまでの間に確固たる夢を持って今を生きてる人ってそんなには居なくて、何となくこうなってみたいなぁ、ああなってみたいなぁという憧れみたいな気持ちはあっても、心のどこかで「でも自分には無理だろうなぁ」とか「そうなるための努力が大変なんだろうなぁ」とかそんな風に最初から諦めてしまう感情みたいなものがあって、結果的に"夢が無いまま生きる人"みたいな状態になってしまうんだろうと思った。

もちろん子供の頃から触れてきた文化や体験に基づいて、それに繋がるように目標みたいなものを掲げてる人も中にはいて、そういった自然とできた目標に向かってひたむきに頑張ってる人ってのは凄いと思う。でも僕みたいにそれまで夢がなかった人が無理矢理夢を作ってそれを叶えようと努力をする事って結構な苦痛なのでは?って思ったりもするんですよね。

もしかしたら僕が叶えたい!とする夢も結局は憧れという漠然とした感情からか細く繋がって出来た仮初の夢でしかなくて、でも夢や目標がないまま今を生きるのは結構苦痛だからとりあえずの目標として掲げてこれからを生きていくしかない。僕の夢ってのは所詮その程度の本気や熱意の感じられない夢でしかないのでは???今の僕は自分の掲げた夢について時折ネガティブな自問自答を繰り返す事が増えてきた。

子供の頃からなりたい!叶えたい!と思って生きてきた人のそれと違って僕の夢にはどことなく熱意がない。熱意がないからそのための努力に対しても計画性がなくて、計画性がないから本気で取り組めなくて、本気で取り組めないから何をやっても失敗する。失敗したらしたで本気でやらなかったから叶わなかっただけなのに「やっぱり自分には無理だったんだ」と最初から諦める結論をつけて簡単に逃げに走ってしまう。 そういう悪循環を呼び起こしてしまう可能性は今でも大いにある。お前の掲げた夢はその程度で諦めるほどの小さな夢だったのかと烙印を押されても仕方ないのかもしれない。

 

でも…今の僕はこれからをどう生きるか?という問いに対して相当迷っていて、夢という名の漠然とした目標に向かって努力をする事でしかこれからを生きる事が出来ないのでは?という恐怖感があるのは確かなんですよね……。

 

ここまで書いてて気付いた事がある。

どうしてこんなにも色んな事を悩みながら自分の人生について考えてしまうのか?もしかしたら僕の中では「何となくで生きる事、目標もなく生きる事はダメな事だ」という固定観念に縛られているのかもしれない…と、そう思った。

それに加えて僕は無駄に焦っている。何かをやるのも何をなすのも早め早めに動かないと後れを取ると思っていて、最近の僕の決まり文句が「もう26ですから…」という言葉になってるのもそういった周りからの遅れに対する恐怖感みたいなものを感じているのかもしれない。

決まってそう言うと相手からは「まだ26じゃない!」と返されるのはそういった人生の焦りを感じるのにはまだ早いとされてるからなのだろう。20代の後半…人にとっては「まだ」と言えるのかもしれない。でも僕にとっては「もう」としか思えなくて、何かしらの努力をするのにも年齢は若くなければならないという固定観念に縛られているから、今もこうやって無駄に悩んでいるのだろう。

世の中にはそれなりのキャリアを積んできた人生の中堅組な人が脱サラをして、それまで勤めた仕事とは一切関係の無いジャンルの職業に挑戦して努力し、成功をした人もいる訳だから年齢や遅い早いという概念に縛られるのはもう時代遅れなのかもしれない。ただそれでも世の中の若者は早いと16歳〜18歳で就職先を決めて社会に出て、努力をして今を生きているわけで、それに比べたら僕の人生はずっと周回遅れで生きてきて、努力らしい努力もしてきたとは思ってなくて、何かを必死に頑張って生きていかないとダメだ!という思い込みが脳を支配してるのかもしれない。

それで延々と悩んでたら元も子もないとは思うのだが、とにかく今の僕は今掲げている夢に対して努力をしてこれからを生きていこうと思っている。もしかしたらその過程で本当に自分のやるべき事、成すべき事みたいなものが見つかって生き方の方向性をガラッと一気に変えるかもしれない…し、その掲げた夢を叶える事が本当に自分のやりたい事だったという結論にも至るかもしれない。

正直、10年どころか5年、3年、1年先の未来もどうなってるのか分からない未曾有の時代に入っている今だからこそ、これからをどう生きるかを決めておく事は大事なんだろう。

 

来年の僕はちょっとだけ背伸びをして夢に向かって頑張る事を目標にしようと思う。

 

推し活という言葉に対して

「推しのために生きる」という言葉を明確に口にしながら生きる人も増えた気がする。全ては自分の愛する推しに人生を捧げるために生きて、生活や仕事は推し活をする為の手段でしかなくて、推しに心を満たされている時が生の充足を一番に実感する時…それで本人が幸せそうにしているのならそれはそれで良いのかもしれない。 僕も借金返済生活をする傍らで大好きなFFやゲームをプレイしながら生きて来た部分があるからその気持ちはとてもよく分かる。

でも人生って最初から最後まで自分の思い通りに生きる事は不可能であって、推し活だって余裕を持っているからこそ出来る事であって、予期せぬトラブルが起きる事によって生活が一変してしまう可能性だって無きにしも非ずだ。そのトラブルを乗り越えた先でも自分の好きな事ができているかどうかなんて分からないし、それに人生の生き甲斐をひとつのコンテンツのみに縛って生きるのって実は結構危ういのでは?と思ってたりもする。

人生を掛けて愛してきたと胸を張って言えるコンテンツは人によって様々だろう。だがその愛するコンテンツがいつまでも自分の理想通りの形で長続きしてくれる保証が一切ある訳じゃない…し、逆にコンテンツ側の方から裏切られる可能性だってあるかもしれない。

推し活…という概念としてはずっと昔から存在していたジャニーズや宝塚が血なまぐさいドロドロの世界で踏み台にされ、泣きを見てきた人の屍によって築かれた瓦礫の塔だったと判明したのと同じ様に、キラキラで憧れを持たれやすい世界の裏には決して表には出せない恐ろしい風習や文化、世界というものがあるのかもしれない。

僕がずっと愛し続けてきているゲームというコンテンツだって、いつその形が変わって文化として消えていくのかも分からない。僕が愛するスクエニファイナルファンタジーだってあと10年もしない内に消えてしまってるかも分からない。そんないつまでも自分の中の理想の形としてコンテンツが残り続けてくれるかどうか分からないものに人生を捧げて生きるのって結構危ういのでは?…と。

 

だけどそれでも人には何かしらの形で愛する者や好きな物というものが存在していて、それによって心が満たされて今を生きる原動力になっている。確かに1つのものだけに全力を注ぐのは極端かもしれないが、それが人生のQOLに繋がっていて、自分の人生として満足出来ているのであればそれが一番良いのかもしれない。

僕はこれまで大好きなゲームとファイナルファンタジーによって心が満たされてきた。そしてそれは今でも続いている。FFを愛し、スクエニを愛し、ずっと昔から愛するコンテンツを生み出し続けてきたその会社に憧れを抱いた。

 

いつしか僕は「夢や憧れを持たせるコンテンツを生み出す人を下支えする存在になりたい!」と、心から強く思った。

 

人生100年時代、まだあと74年ある。

頑張って生きて行こう。そして努力して行こう。

 

今日も僕はそんな想いを胸に抱きながら日々を生きていくのだった。