ポッポ屋日記

日記的なブログにしたいです

コロナと共に生きる生活に終わりは来るのか

 

今回は本当にただ思った事を書いただけの日記みたいなものですので特に読んでも読まなくてもどちらでも良いです。

暇つぶしにもならないかもしれませんが

 

 

僕が所属している社会福祉法人(以下"社福")でコロナの感染者が出た。それを知ったのは僕の住むグループホーム(以下GH)の同居人のひとりが突如お上からの指示でその人の職場でもある介護施設に隔離される事になった事で初めてその事実を知った。

あとからホームページを見てみると社福が運営する介護施設で職員の感染が判明したとの報告があった。しかもホームページにはそれより前から別の施設でも職員によるコロナ感染が判明していたという事実を知り、その時点では計4箇所の施設でコロナ感染者が発生した事になる*1

うちの社福では以前にも同じ施設でコロナの感染者が出た事があった。しかもその時はデルタ株が猛威を振るっていた夏の時期で同施設での大規模クラスターも発生した。幸いそれが他施設への感染拡大に繋がることは無かったが、クラスターが発生した介護施設での厨房機能は麻痺、しばらくの間は僕の職場で施設の夕食を作って届ける期間が発生した。あの頃はうちの社福ではまだ誰一人としてコロナに感染したという情報が出ていなかった。それがとうとうついにといった感じなのだが、それでもまだ感染が判明したのは1施設のみに留まっていて、僕は「うちの法人の感染予防対策は万全なんだな」と思っていた部分もあった。

しかし今年の1月末になってから再びコロナがうちの社福に猛威を振るう事になってしまった。しかも今度は複数箇所の施設による感染拡大が広がりつつある状況...感染株の種類は公表されていないが、恐らく感染力の強いオミクロン株で間違いはないだろう。感染した4箇所の施設の中には以前クラスター発生した施設も含まれていた。老人ホームの介護施設職員経験者の世話人のおばさんは「あそこの施設の感染予防対策はどうなってるのよ...ちょっとずさん過ぎない?」と周りにボヤいていた。

確かにうちの社福はデルタ株の時代に一度は感染者が発生してしまっている。事態が収拾した後の警戒感は更に強くなって然るべきで、その気持ちは分かるし、同じ施設で何故?と思う気持ちも分からなくはない。だが今世間で猛威を振るってるのは感染力の強いオミクロン株だ。症状は比較的軽めと言われていても人から人への感染の伝達速度はデルタの比ではない。いくらマスクを付けて手洗いうがい消毒の対策をして万全を期していたとしてもほんの少しの油断が感染に繋がってしまうウイルスだ。

世間がコロナに対する恐怖心を持ったおかげでインフルエンザウイルスの感染者が皆無に等しいぐらい激減している...にも関わらずそれでも感染してしまうオミクロンによる感染拡大力の強さは異常である事を如実に表している。だからこれはある意味仕方がない事なのだ。あの世話人さんにはその事をどうかわかって貰いたい。そんな事を時々思いながら僕はコロナ感染と背中合わせの今を過している。

 

2年前にコロナが世界で少しずつ流行り始めてからそれまで過ごしていた生活スタイルが大きく変わった。みながみんなマスクを付ける事が当たり前のようになり、食事の為にマスクを外す時は必ず黙食、外出先では常に消毒と手洗いをこまめにやって長時間の滞在は控える。そもそも不要不急の外出をしない。

休みの日は家で過ごし、必要な買い物以外での外出はしない。国や都道府県からはそう求められているコロナ禍での生活スタイル...。僕もできる限りそれを守った生活をしようと心掛けることは度々あった。でも世間のみんなはそれをきっちりと守れる人達ばかりではない。不本意ながら家に居る事で外圧的な窮屈感を感じて我慢が出来なくなった人が己の欲求に身を任せて自分の好きな事をしに外へ出て活動をしていく.....それが自身の感染リスクを高めるという危険があったとしても人は己の欲求に理性で抗う事はとても難しい。周りの人達の事を鑑みない人にとっては世間から求められている自粛という風潮に嫌気が差しているのだろう。

僕もまた自分の好きな事をしたい、欲求に素直になって外で好きな事を楽しみたい、と思う事は何度かあった。でもそれをしようと考えるその度に僕は周りの人達への迷惑というものを考え、悩まされる事になる。好きな事をしたい、感染リスクを背負ってでもお出かけをしたい。その欲求がある一方で、万が一感染してしまったら...感染した時に周りからどういう目で見られてしまうのか...感染してしまったあとの自分の生活は...コロナに感染する事で発生する大きなデメリットや周りからの確実に受けるであろう白い目の事を思う度に僕は罪悪感を感じて出かけたいと思う欲求が萎んで落ちていく...自身が満たされたいとする強い欲求と周りの人間から嫌われたくないと思う自身への保身がいつも激しくぶつかり合う。結果保身がいつも勝って出かけたいと思う欲求は抑え込まれることになる。

おかげでどうしても行きたかった2つの重大なお出かけを泣く泣く諦める事になった。今更その事を思っても仕方がないのだが、もしあの時の僕が周りの事なんか一切考えずにお出かけを楽しみに行ってたらどんな事になっていたのだろうか。少なくとも今こうやって部屋でゆっくりとゲームを楽しみながら過ごす日々を迎えられる事は無かったのでは?とも考えている。

 

世間でワクチンの2回接種が進むようになって一時期は感染者の数が激減して抑えられたかのように見えた。おかげでやっとこのwithコロナという生活に終止符が打てる。そう思った時もあった。でもオミクロンの存在がその淡い希望をぶち壊した。それどころか自分の身近な周りにまでコロナの感染者が発生するようになって、常日頃からオミクロンに感染するかもしれないリスクが大きく跳ね上がった。もはやコロナにいつ感染してしまってもおかしくはない。

常に感染するリスクの事を考えながら生活をしなければならないことになった。

 

この生活に終わりは来るのだろうか?コロナ前まで過ごしていた当たり前のような日常を取り戻す事なんてできるのだろうか?コロナは季節性インフルエンザと違って通年で感染してしまうリスクのある病気、ワクチンで重症化を抑え込まれたとしても全く感染しなくなるわけではない。コロナに直接効く特効薬もまだ治験段階で一般に普及するほどのものは完成できていない。

いつまでこの生活をずっと続けなくてはならないのだろうか?その先の未来に僕はあまり希望が感じられない。終わりの見えない闇の中をずっと彷徨い続けている気がする...。これまでの人生を生きててこんな未曾有の時代を生きる事になるなんてとても思いはしなかった。

もしかしたらコロナを完全に死滅させる事は不可能で、これから先はずっとコロナと共に生きていかねばならない事になるかもしれない。まさしくwithコロナ、コロナと共にある生活が当たり前のようになる。

世間はコロナの終わりを夢見ながら日々を生きているが、何を持ってして終わりとするのか?果たして本当に終わりなんて来るのだろうか?僕は個人的にコロナが居なくなる事を願うよりもコロナとどう付き合ってこれからを生きていくのか?にシフトした方が良いのでは?とも考えている。

それは決してワクチンの接種を否定したり、感染予防対策やマスクに対する反発をしている訳では無い。それらはもちろん大事な事だし、自身と周りへの感染拡大を防止する当たり前の配慮としてあって当然だとも考えている。だけどそれをしたからといってコロナを完全に死滅させる事は不可能だとも考えている。

コロナは常に存在する病気であると認識してコロナと共に生きる事を当たり前のように考えなくてはならない。感染してしまったとしても余程馬鹿な真似をした人でない限り、感染した個人に対する責め苦を与える様な懲罰は与えず、仕方がない事として受け入れてもらわないと感染者本人の精神が持たない。コロナ自体も怖いが、コロナに対する恐怖心を強く持つ世間や周りからの過剰な反応というのも実はかなり恐ろしい。

感染者本人を吊し上げてサンドバッグのように叩く...間違っても世間がその様に感染者個人の人権を危険に晒すような事をしてはならないと思う。

 

願わくば僕だってコロナの終息を想いたい

しかしそれが果たしていつになるのか?何年?何十年先の出来事になるのか?そんな先の見えない未来の事に思いを馳せながらこの先を生きていかねばならない...改めて激動過ぎる時代に突入してしまったんだな...と僕は思う。

 

いつかこの話が笑い話として振り返れる日が来る事を願いながらこの先も生きていく、生きねばならない。

みなさんもどうかコロナには気をつけましょう。身体を無事に保ってください。

 

 

*1:現在は更に複数の施設で感染が拡大し、一部GHでの感染も判明、更には僕の職場でも感染者が現れた