ポッポ屋日記

日記的なブログにしたいです

批判について真剣に考えてみる(後編)

 

前回の記事で批判という存在をテーマにして記事を書き始めた時に、批判の本来の意味や批判と僕について、批判をする時は理路整然としなければならなかったり、愛するコンテンツへの批判に過剰反応する人たちについて、妄信的思想は危険という事を書いてきたが、かなり長くなりそうだったので前後編に分けました。

ここからは後編です。

 

好きの反対は嫌いではなく無関心

前回も述べたが本来の批判というのはコンテンツや作品の良点と悪点を割り出した上で品評したり、改善点を考え提案する。そして建設的な議論を交わす事だ。

その中でも悪点、つまり問題点をあぶり出し指摘するというのはどうしても肯定的に捉えがちになっている物事に対する評価をする上では特に重要なポイントだと僕は思っている。その逆もまた然りだ。議論とはあるひとつの事象に対してお互いの思う意見を交わし、擦り合わせる事によって自分だけでは気づかなかった点に気付かせる事を目的としている。

要するに1つの物事に対して一面的に捉えるだけでなく多面的に捉える事によってその物事に対する価値観を柔軟に変化させたり、善し悪しを最終的に推し量るのが議論というものだ。ただ現状それができている人ははっきり言って少なく、白黒はっきり分かれた一面的な意見だけで互いにぶつかり合い、とっちらかった大喧嘩を交わす...そうでなかったとしても「自分とこの人は馬が合わない」としていつの間にか距離を置いて遠ざけるようになったり、縁を切ったりと、特に人との繋がりや思い入れが希薄になりやすいSNSという世界に於いては繋がった相手との価値観の相違は簡単に相手との繋がりの解消を選択させてしまう重大なファクターとなり得る。

 

好きと嫌い...好きは当然肯定、好意といった分かりやすい形で物事に対して関心を持っていることになる。しかし嫌いもまたある意味物事やコンテンツに対して関心を持っているという意の裏返しなのでは?と僕は思っている。

とある作品が好きになれない、または嫌いとする感情はマイナス感情ではあるが話題に出して関わるという意味では好きと同様に物事に対して関心を持っており、場合によってはその作品を嫌いとする理由を述べる為に作品自体の事を事細かに調べており、下手をすればファンよりも詳しくなっているなんて事が時たまあったりする。ファンよりもアンチの方が作品に詳しいとされる理由はそういうところに起因するものがある。

 

好きは好きとするポイントを見つけるのがとても簡単で曖昧な言い方をしても好きというプラス感情の作用によって人からの反感を買う事がほぼ無い。

しかし嫌いは何がどういう理由で作品が嫌いなのかを具体的に説明しなければならない。でなければそれはただ中傷したいだけのアンチなんだと簡単に認定されてしまい、袋叩きに遭う。いずれにしろアンチアンチの作用によって受け手側の感情が爆発して批判者が人格攻撃を受けるリスクがある事に変わりは無いのだが、それでも作品を自分が嫌いとする理由をひとつでもふたつでも具体的に述べる事が出来ればただ漠然的に嫌いなんだとするレッテルを貼られることはある程度回避することができ、受け手側の感情の逆撫でを軽減できる。

また一言に嫌いとは言っても改善して欲しい、かつての栄光を取り戻して欲しいという願いを込めて問題点を指摘し批判をする人も必ずいる。長年ファンだった芸能人が犯罪を犯して投獄された時に批判はするものの、罪を償って帰ってきて欲しいという願いと慈悲の気持ちが込められており、完全なアンチだから批判をするとは言いきれないのが現状としてある。

ゲームに対してああして欲しい、こうして欲しいという嘆願も込めて批判をするのもゲーム開発者に作品を愛するユーザーとしてひとつの意見としてそれを述べる事によって作品の質の向上を願っているからこそ批判をする場合だってある。そういう思想が根幹にある人の批判は決してただのアンチと簡単に決めつけて排除されるべきではない。本当に心の底から嫌いになった瞬間と言うのは物事やコンテンツに対して一切の興味を示さなくなった時が本当の意味での嫌いだと僕は思っている

 

好きの反対は嫌いではなく無関心

 

よく聞く言葉だが本当に正しくその通りだな...と心を突く言葉として僕は思っている。

 

自分の愛するコンテンツが落ちぶれてしまったら

嫌い嫌いと言っているうちはまだ嫌いだとする物事に関心を持っている証拠である。

しかしコンテンツや作品が落ちぶれた時、いつまでもずっと失望による絶望感から燻り続けてしまうのもあまり良くはない。ずっと失望感を持ち、愚痴り続けていると「この人まだ言ってるよ...」と、周りからの印象は悪くなるだろうし何より自分自身が疲れてしまう。改悪したコンテンツに改善の余地や希望が見られなかった場合、思い切ってそのコンテンツからは離れ、また違うコンテンツに対して関心と興味を持ち、好きを発信し続ける事が精神衛生上良いのでは?とも考えている。

長年愛し続けてきたコンテンツから自らを切り捨てて離れる事は相当難しいかもしれないが、苦しみながらも関心を持ち続けてしまう事はコンテンツに対して自分が縛られていることにもなってしまう。だったら一旦はそこから離れ、また時々顔を出すか思い切って違う趣味や推しとなる別の存在を見つけて好きの気持ちをそこに向けて発信し、その気持ちを持ち続ければ良いと僕は思う。

現に僕は改悪されたコンテンツや人に対して燻った想いを持ち続けてしまっていたが、自分の中で心の断捨離をした事によって今は別の話題や別の好きな物に関心を向けて好きを発信する事ができている。ずっと憧れていて追いかけ続けていたコンテンツの背中に追い続けられなくなった時は必死になって追うのをやめて、立ち止まり、また別のコンテンツの背中を追い掛けるようにすれば良いと僕は思う

 

批判を気にしない心の余裕を持つ事も大事

自分の愛する作品やコンテンツが他人に批判をされていた時にムッとしてしまう感情は誰しもが抱く事だ。その事に対してつい反論したくなる感情が掻き立てられるのも分からなくはない。しかしそういう時こそ相手の批判を気にせずにどっしりと構える心の余裕を持つことも大事だ。本当は相手の意見を吟味した上で物事の善し悪しを判断できるのが一番なのだが別にそうまでしなくても気にしないという心の余裕を持つことは精神衛生上的な意味でも重要な事だ。作品に対する自分の愛に自信があるのなら理不尽な非難や中傷に対してノーダメージでいることだってできる。

更に中傷と批判の違いが見分けられるのならそこからお付き合いすべき人間を見定めたり、自分の価値観が歪んだものになっていないか確かめることだってできる。僕はスクウェア・エニックスFINAL FANTASYシリーズが好きなのだがあの作品も結構色んな事をネットで言われている...が、そんなもん関係なしに僕は今FFに対する情熱が燃えに燃えている最中なので中傷というものには一切耳を傾けず、ただひたすらに愛する事だけに力を注いでいる。

 

理想はある程度の批判ができる社会になる事

否定的な意味合いでの批判という文化は実になる事がほとんどなく、前へ進むための要素を何も生まないかもしれない。しかし間違った事を間違ってると言える人の存在は必要不可欠であり、そういった反対意見を述べる人の存在は決してなくなることは無い。

だが結局は肯定するにしても否定するにしても程度と加減が大事なのであって、批判しすぎるのも良くないが肯定しすぎるのも良くない。好きなものに対しては基本的にポジティブな考えでいても構わないだろう、けれどファンとして批判をする時は批判をする。そしてその批判を見た人は「この人は〇〇のアンチなんだな...」と簡単に決めつけないで欲しい。

悪意のある中傷だと分かるもの以外の批判はその人が批判をするに至った理由などを考えその心境を汲み取れるようになればとても建設的な議論を交わす事ができる。人間の感情や価値観に大きく関わる事なのでなかなか根本的解決は難しいかもしれないが、この記事を読んだ人が少しでも批判の本来の意味を改めて知り、自分の批判は中小になっていないか?知り合いの批判は誰しもが感じる感性として当然のものと思えるか?等を考えられるようになってくれたらとても嬉しい。

 

以上、批判についての記事を終わりにする