ポッポ屋日記

日記的なブログにしたいです

批判について真剣に考えてみる(前編)

 

人間が人生を生きていく中で娯楽や趣味はとても欠かせない文化だ。日々の仕事をこなし、疲れて帰ってきた自分へのご褒美やリフレッシュとして娯楽と趣味の存在は必要不可欠

スポーツやフィットネスといった運動系の趣味もあれば料理や手芸などといった器用さが求められる趣味、ゲームや漫画といった製作者がユーザーに提供してそれを楽しむ娯楽もあれば、芸能人やアイドルの追っかけといった推しに愛を注ぎ込むという行為も立派な趣味だ

趣味や娯楽はその愛情や力の入れ具合が強くなると生きがいになる。推しや愛するものの為に仕事をしていくモチベーションを高め、自らが立てた目標のためにたゆわぬ努力をする...特に今の若い人は何かしらに対する推しという存在を意識的、または無意識的にも持っていて、そういう推しの存在の為に仕事を頑張ってる人も多いのではないだろうか?僕もまたその口である。

 

しかし趣味というものを楽しむ中で、特にゲームや漫画の様なサブカル文化や芸能人という偶像に対するものには必ず避けて通れないのが批判という存在

ゲームや漫画だったらシリーズや個々の作品に対しては常に賛辞と同時に何かしらの批判がついてまわり、芸能人に対しては発言や行動といった芸能人一人一人の人間性に対しては世間があーだこーだ言ってたりするのが世の常だ

あるひとつの、例えばある1人の芸能人や、とあるシリーズのゲームだとか、世間で大人気の漫画作品だとかそういう特定の作品を楽しむ人達が共通のファンとして数多く集まっている事を俗称として「〇〇界隈」と称される事がある。界隈に集まる人達はそれぞれが共通の推しを持っていて、それを元にコミュニティを作り、会話をする...自分が愛でるものに対する人との共通性からファン同士の交流としてお互いの価値観を知り、推しへの愛情を更に高めていく...本来ならそういう建設的な交流を果たす事で趣味や娯楽文化を更に楽しんで行くのが理想なのだが、やはりそこは人間同士...そう簡単に一筋縄とは行かず、一枚岩にならないのが現状としてある。

 

例えばゲームで言えば長期に渡って続いているあるひとつのゲームシリーズがあったとして、そのシリーズを愛するファンは全員が全員そのシリーズの全ての作品が好きな訳では決して無い。初期の頃の作品が好きだったとする人もいれば、中期の作品、後期の作品の方が好きだとする人も当然いる。そういう特定の作品しか好きじゃないとするファンは己の中でのシリーズに対する「〇〇はこうであるべきだ」とする価値観が固着している事が多く、昔の作品の方が好き過ぎる故に今の作品を受け入れられないファンはいわゆる「懐古厨」と呼ばれる事が多く、今の作品の方が好きだとするファンはそもそも昔の作品に触れる機会すらない事から懐古厨の「あの頃は良かった...」という発言に共感して理解をする事が出来ずにウザいと感じることもしばしば、ジェネレーションギャップから来る価値観のぶつかり合いが生み出したまさにいびつで歪みのある価値観の摩耗である。

 

「批判」の本来の意味

批判という言葉を聞くとどうしてもマイナスイメージが出てきてしまう言葉だが本来批判という言葉はあらゆる物事に対して否定的な考えを述べるという意味ではなかった。

 

精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙
① 批評して判断すること。物事を判定・評価すること。
② 裁判で判定・裁定すること。判決。
③ 良し悪し、可否について論ずること。あげつらうこと。現在では、ふつう、否定的な意味で用いられる。

引用元 … 批判とは - コトバンク

 

またWikipediaにある「批判的思考」という項目では批判の本来の意味がより詳しく解説されている。以下概要↓

批判的思考(ひはんてきしこう)またはクリティカル・シンキング(英: critical thinking[1])とは、あらゆる物事の問題を特定して、適切に分析することによって最適解に辿り着くための思考方法である。批判の定義については論者によって異なるが、共通的には、単に否定的になるのではなく、自身の論理構成や内容について内省することを意味する。その方法論としては、考察対象をよく理解すること、間違った推論を起こす暗黙の前提を明らかにすること、証拠について評価したり、循環論法や人身攻撃など論理的な誤りを避けるための誤謬についての理解といったこと。21世紀に入り、批判的思考を教育カリキュラムに取り込む動きがある。

批判的思考 - Wikipedia

 

批判とは本来あらゆる物事や事象、偶像に対して良いポイントと悪いポイントを割り出し、評定をしたり、改善をするためにはどうすれば良いのか?と論理的に考え建設的な議論を交わすのが本来の批判である。しかしこの事を世界中のどの人間も自分を含めてそれがしっかりとできていない。

とある作品に起こった事象に対して一方の人間はその全てを良しとして肯定と擁護側に回り、もう一方はそれを悪として否定と間違った意味の批判をする。善と悪、陰と陽に分かれた価値観のぶつかり合いでは決して建設的なファン交流を果たす事が出来ず、嘲笑、憤怒、悲哀と言った人間のマイナス感情をただ働かせて心を疲れさせるだけで議論は何の解決にもなっていない。

にも関わらず人は常に何かしらの事象に対して己の中の物差しだけで物事を測り、良い悪いといった単純な結論を出してしまい、そこに価値観の相違が生まれた人間との争いを起こしていく...残念ながらそういうやり方で人との付き合いが変化していってるのが人間だ。

 

僕と批判

否定的な言葉を述べる事を批判とするのは本来間違っているのだが、ここからはその否定的なニュアンスを言う事としての批判として僕と批判の事を書いていく

さて僕にとって批判とは正直な所苦い思い出しかない。昔、人生で初のSNSであったMiiverseでは批判によって色んな人と喧嘩して敵を作り、Twitterを始めた初期の頃はハマってたアニポケでファンとの交流を果たしていたものの、僕の心理状態が良くなかった事から批判ばかりするツイートをしてしまいフォロワーさんを大多数失った。

高木さんにハマっていた頃は常に楽しむ事ばかり考えていたことでポジティブシンキングになり、ポジティブな気持ちでファンとの交流を重ねる事ができたのだが、僕自身がずっと永遠にポジティブな考えを維持する事が出来ず、ファン交流していく中で見えた人間性の価値観の違いから多くの軋轢を残し界隈を去った。

ポケットモンスター ソード・シールド、あつまれどうぶつの森と言った僕自身もかつてはファンだったシリーズ作品の最新作の出来の悪さに失望し、慨嘆した僕はブログという形で批判をし*1SNSでも任天堂批判のツイートを続けた結果大変な事になった。

 

このように批判というマイナス感情を生み出す言動は良くない結果ばかりを生み出してしまい、度々反省する、しかし時が過ぎてまた同じ過ちを犯してしまう、そんな事の繰り返しで今の僕はここまでを生きている。

しかし批判は決して悪い結果しか生まないばかりではなかった。批判によって新しい繋がりが生まれて今も交流しているフォロワーさんはいるし、因果応報がその身に降りかかる事によって心が傷つく事も多くあったが、その経験が自分自身の糧となり、一昔前に比べて自分の価値観は大きく変わった。

現在はSNSに於いての批判は変な人たちに目をつけられて絡まれるのを防いだり、今いるフォロワーさんに不快な思いをさせないようにする為にツイートでの無用な批判は極力避け、自分の好きな事を考えながら生きている。自分で言うのもなんだが昔に比べて鳴りは潜めてるはずだ。

 

僕がかつてのファンとしての失望感からくるポケモン剣盾とあつ森の批判をしたあの当時、僕の書いたブログ記事はブログ内での注目度が一番高かった代わりに賛否両論だった。

内容に対してとても共感できると賛辞を送る人もいれば、ただのアンチが書いたクソゴミ記事とアンチ認定をする人も居た。ただ今思えば剣盾の記事への反応は「一生ポケモンやるな」「こんなやつファンじゃねぇ」「お前の求めてるポケモンなんかどうでもいいんだよ」と、アンチ認定して中指を立てる人の割合が多く、あつ森の記事は逆に「すごいよく分かる」「共感しかない...」「愛のある人だったんだな...」と賞賛する人の割合が多かった。

どちらにしてもこの記事を良しとしない人の反応は絶対にあり、そういう人たちはみなポケモンやあつ森が批判される事自体を嫌っている感じだった。

自分の好きな作品が見ず知らずの赤の他人によってボロクソに批判をされている。その事自体への不快感が批判者に対する憎悪の感情を生み出し、批判に対する批判が生まれる。批判という行為だけでその人自身の人間性を推し量れるものでは決してないのだが、マイナス感情を働かせる批判という行為は見る者の印象を悪くしてしまい、批判者自身を受け入れられない存在として見なし遠ざけてしまう

その根幹にあるのがやはり人間同士の価値観の違いであり、例え仲が良かった人であったとしても自分とは価値観が違う人との交流をしたくない、繋がりたくないという感情が縁切りという行為に至らせてしまうのだろう。しかしそれは誰しもが思うに至る考えなのであって別に何ら間違った事はしていない。人は価値観が似た者同士での交流に居心地の良さを感じ、価値観の違う人を受け入れられない者として排他するのもある意味仕方の無い事なのだろう。

 

しかし批判という行為は本当に絶対悪と言えるのか?僕はそこに大きな疑問を抱いている

 

批判という行為が生み出すもの

批判とは先にも述べたように本来は物事や事象に対して論理的で建設的な議論を交わす事が本来の批判である

また否定的なニュアンスとしてまかり通っている意味での批判は特にゲームや漫画といったサブカル文化の中での批判はその作品が嫌いな人がする行為、いわゆるアンチ行動だと思っている人が大多数で実際その通りな部分もあると思うが完全にそうなのか?と問われればそうとは言いきれないと僕は思う。

これは自論だが、批判という行為は何もアンチだけがするものではない。かつてのシリーズ作品のファンだった人や愛情が強い人だからこそする批判も世の中にはあると思う。特に本物のアンチがする批判と愛情のある人のする批判は批判の根幹にある姿勢が全然違う。

アンチの批判はあれがダメだ!ここがダメだ!だからクソ!と汚く語気の強い言葉を織り交ぜて批判をする事によってその作品に対する悪印象を見る者に植え付け、批判をした作品自体の価値を下げたいだけの批判

愛情のある人の批判はここをこうして欲しかった、ああして欲しかったという改善案や希望を書きつつ、どうしてこうなった...という失望感から来るものが発端としてあるので、改善して欲しいという希望が根幹にあるものの批判

 

同じ批判でも批判の意味合いが大きく違う、アンチのする批判は大抵は批判を超えて中傷とされる場合が多い。こうなるともはやただ悪態を吐いて作品の価値を下げたいだけの行為になり、誰からも嫌われる存在になるのは当たり前だろう。しかし愛のある人でも批判をする時にはその批判のやり方を気をつけて批判しなければ中傷になってしまう恐れがある。

 

・批判をする時ほど冷静にならなければならない

世界中の人間が論理的で建設的な批判ができていないのはそこに人間としての感情が乗っているからである。

生物学上最も頭の良い人間だからこそ、批判にはどうしても感情が乗ってしまう、アンチの批判には憎悪の感情を含め、愛情のある人の批判でも悲しみや怒りの感情を乗せて呟いたりしてしまっている。批判されるポイントとなった結果点のプロセスを吟味すること無く、己の感情から生み出された自分の気持ちを載せて書いてしまうからどうしても批判には感情的なニュアンスが乗ってしまう。感情的な気持ちのままに書いた文は決して冷静で論理的ではなく、議論を交わすという意味としては失格である。

また感情的になるのは批判者だけでは無い、それを読んだ受け手側も感情的になりやすく、感情的に書かれた批判を読んでそれを読んだ人が更に感情的になって批判者に対して感情を込めた反証や反論を述べる...こうなると感情がヒートアップしていき、収集がつかなくなる。そして結果的に互いの心が傷つき心がすり減らされるだけ、悪い結果にしかなっていない。

特定の物事や作品に対してダメなポイントを見つけた時にそれを批判点として書く時は常に冷静にならなければならない。そのダメなポイントはどういう理由でダメだとするのかを冷静になって書かなければ、その人が込めた感情だけが伝わってあらぬ結果を生み出してしまう。受け手側もまた読んだ言葉の端的な意味だけを捉えることなく、その人がどういう理由で批判をするに至ったのか?その批判の意図は何なのか?をよく理解し、その批判が質の良い批判か悪い批判かを見定めなければならない。

そうでなければお互いの良い悪いだけがぶつかり合い、カオスな空間になってしまうのは必至だろう。批判をする時ほど理路整然としながら何がダメで、どういう理由でダメなのかを述べる必要がある。冷静に述べたその上で「こいつはただのアンチだ」と言ってくる人がいたらそれはその人が感情的になっているだけの話で取り合う必要性が無い。無視をしよう

 

・好きなものへの批判に過剰反応する人達

先述した通り批判に対する批判というのも存在する。いわゆるアンチアンチと呼ばれているそれは主に自分の好きな作品や愛するコンテンツが批判をされていた時に批判者に対して怒りの感情を向けてしまい、クソリプや反論リプを送ったりする事を指したりするが、何故その人は見ず知らずの他人の批判に対して感情的になり、過剰反応をしてしまうのか?それは多分自分の好きな物への批判=自分への批判として捉え、怒りのスイッチが入ってしまうからではないかと思っている。

好きで好きでしょうがないとする感情が高まるとコンテンツと自分を同一化する傾向にある。冒頭にも書いた好きなものへの愛情が生き甲斐になるほど強くなるとコンテンツと自分を重ねる部分が強くなり、コンテンツへの批判がそのコンテンツを愛する自分への批判に置き換わり過剰反応してしまうのでは?とも考えている。

そういう人ほど他人が物事への批判をするに至った経緯や思いというものを汲み取ろうとする気が最初から無く、好きな物への批判を悪として絶対視し、批判した相手の人格を否定する事で相手を貶めてマウントを取ろうとする。

だけどそんな幼稚な行動をしている人が相手を言い負かす事なんてできるわけがなく、スクショしてSNSに晒されて終わるのが関の山、下手をすればアンチアンチをしたその人自身がコンテンツの妄信的な信者として見られ、敬愛するコンテンツの価値を下げ立場を失ってしまう事だってあるだろう。

 

しかし自分の好きなコンテンツが悪い様に言われる事に対して良いと思わないのは確かな事だ、建設的な意味合いで冷静な状態での批判ならまだ良いが、感情を込められた批判、あるいは悪口ははっきり言って見ていて良い気分はしない。

自分はとあるゲームが好きで周りの人もそれが好きで楽しんでいる中で常日頃から「あのゲームはダメだ」と自分の好きなゲームの愚痴を漏らしている人の話なんかとても聞きたくはないだろう、それを見たくないとするのならミュートをするなりしてその人との距離を保つ、あるいは切り捨てる。その人との禍根は残ってしまうが、そうやって人を切り捨てる事によって自分にとって居心地の良い空間を作る人も中にはいる事だろう。

 

だがしかし、だからと言ってコンテンツへの批判自体を全て悪とみなすのは非常に危険だと僕は思う。それはもはや盲目的な信頼、イエスマンへと成り下がってしまい、公式のやることなすことを全て受け入れてしまうことになる。

批判とは本来そういうコンテンツを提供する大元がしでかした間違ったポイントを見つけ出して是正をするのが役割としてあるのだが、その批評の全てを悪としてみなしてとっぱらい、公式の全てを良しとして全肯定をする事は結果的にコンテンツの衰退へと繋がってしまう。

 

例えて言うならいつも美味しいピザを提供していたピザ屋がある時、味をリニューアルして提供したものの、それが以前よりも美味しくなく、不味いものだったとする。

普通だったら「不味い!もっとこうすれば良いのでは?」と批判をする事でピザ屋に改善を要望する事によってその意見を採り入れたピザ屋がまた美味しいピザを作れるようになるのが本来の批判なのに

例えどんなに不味くても「美味い!もっとこういうの作って!」と本当のピザの美味しさも分からない人が不味いピザを全肯定をしてしまい、ピザ屋は「評判高いしこのままでいいんだな!」と正当性のない間違った評価をそのまま受け入れてしまい、不味いピザを作り続ける事によって以前の味が好きだったピザ屋のリピーターはそのピザ屋が美味しいピザを作れなくなったとして離れて行き

また不味いピザを全肯定した人もリピーターにはならずにいつの間にか飽きて離れてしまう事になり、結果的にピザ屋のお客さんは大激減、美味しいピザを作れなくなった上にピザも売れず、ピザ屋は潰れてしまう。

もちろん全肯定の意見を言う人に対してそれは違うだろと言う人もいればやはり間違ってるとピザ屋に言う人も同時にいるはず、しかしそれに対して全肯定をした人が「お前うるさい」と本来の批判をした人の言葉を弾圧してしまい、意見を遮ってしまう事で本来届くべき批判が公式には届かず、余計に衰退への道のりを加速させてしまう。

 

 

これが妄信的な全肯定の怖い所で例え今はイエスマンによってコンテンツが支えられていたとしても、長期的な目で見た場合最終的にコンテンツは衰退の一途を辿ってしまう。

僕は自分が批判者として冷たい視線をこれ以上送られるのが嫌だから批判はしなくなったが、本当は今でも色々と言いたい事はいっぱいある。ただそれを物申す時の程度や加減は自分次第であり、受け手側にどう受け止められるのかは受け手次第である。本当はその事を恐れずに色々と言いたい事を言える人になれれば良いのだが.....そう簡単には行かない

 

長くなってしまったので後編に続きます。

 

 

*1:ポケモン剣盾の批判記事については諸般の事情により削除した