ポッポ屋日記

日記的なブログにしたいです

あれから...

 

母親と喧嘩をした

切っ掛けはお金に関する些細な思想の違いで

でも内容は決して些細とは言えないものだった

 

母親の思う考え方が僕には合ってなくて、母もまた僕の思う考え方が合わない部分があった

 

家族内でもぶつかり合う価値観の違いに加えて、僕が長年思い悩んでいた母の怒った時の鬼気迫る圧力や精神的に追い込まれる言葉の矢の雨によって僕は母に対してトラウマの様な感情を抱くようになってしまった。

同時に母に対する怒りがふつふつと沸いた、抑えきれなくなった感情を爆発させる様に僕はブログにありのままの現状を全てさらけ出した

 

それからの僕はいったいどうなったのか...

 

その後を出来るだけ簡潔にお話します

 

 

人生4度目の家出

母親と喧嘩した後の僕は僕自身も精神的にナーバスになる。喧嘩は激しく体力を消耗するし、怒りの感情を爆発させる事は自分の精神を追い込む事にも繋がる。だから僕は疲れきっていた

そういう時は大抵、その元凶となった母親とは話したくない気持ちになる。だから朝起きてもおはようの挨拶も交わさないし、仕事も黙って出て行き、黙って帰ってくる。でもいつまでも話しかけない訳にはいかなくて、必要最低限の会話はしなければならない時が来る。それに母としては自分にも喧嘩の原因があるとは思っていないみたいで、いつも母親を無視して不貞腐れる僕の態度が気に食わない様だった。

だから母はいつも「何であなたが不貞腐れてるんですか?あなたにそういう態度を取られる筋合いはないんですけど」といつもそう言う。

その時毎回「自分にも悪いなと思う部分は無いのか...」と感じながらも、いつも僕がそこで反省の言葉を述べなければその先の物事が円滑に進まなかった。だからいつもすみませんでしたと心のこもってない謝罪をして物事を円滑に進める。最近はいつもそうしてきた。100%自分が悪いと決め付けられる喧嘩の謝罪をするのは非常に癪だが、ここで謝らなければまた更なる大喧嘩に発展して僕の精神が病んでしまう。その事を防ぐ最後の防衛ラインとしてもここがいつもギリギリだった。

 

だけど...今回の喧嘩で最終的にその防衛線は破られてしまった。

 

最後の最後まで喧嘩をし続けた結果、僕の精神は壊れかけた。成人してからはずっと思わずにいた"死にたい"という感情が溢れ出し、死んで楽になりたいと命を投げ捨てる終末的な思想をしてしまった。

感情が昂って出た言葉ほど勢いだけで現れ、中身のない言葉は無い。しかし己の中で感じた気持ちだけは真実であり、それを誰かに吐露せずにはいられなかった。僕はその気持ちを弟とTwitterに投げ掛けた。弟は死なないでくれと言い、Twitterでも死んではダメですと名もなき人が声をかけてくれた。母はその後、隣にいる僕に聞こえるのが分かっていながら僕の悪口を延々と言い続けた。正確にはいつまでも反抗的な態度を取る僕に対する愚痴に近い様なものなんだろうが、それでも僕にとっては苦痛以外の何物でもない言葉でしかなく、延々と言われ続ける僕への悪口に精神が耐えられなかった

この時、僕は母に愛されてないんだと思った。母にとって良い息子というのは従順で、決して母に対して反抗的な態度を取らず、我が家のピンチの時には身を持って犠牲になってでも家族を助ける事、実際はそうではないのだが、その時の僕は母に愛されていないんだと強く思い込んだ。それによって僕の中のタガが外れた。

 

「もうこんな家には居られない、家出しよう」

 

極限まで精神が追い込まれると僕は家出をする結論に至る。小中高と学生時代に3度の家出をして来た僕ではあったがこれが人生で4度目の家出、そしてあの頃とは違う本気の覚悟と決意を持った家出だった。

しかし家出の成功率はどれだけの軍資金と人づてがあるかどうかで全てが決まる。大した金額の金もなければ突然家に転がり込む事になっても快く泊めさせてくれる友達も居ない。そんな状態で決断した家出という選択は非常に短絡的で無謀過ぎる選択だった。しかしそれでもその時の僕はとにかく母の傍にいるのが嫌で嫌で嫌で仕方がなかった。

あの人のいる家に戻るぐらいだったら僕はホームレスになってでも良い、どんなに辛く厳しい道のりだったとしても僕は一人で生きていく。帰る道など元から捨て去っていた。荷物をまとめ、大量の着替えや財布、重要な物などをカバンに詰めれるだけ詰め、最後に母が眠りについたのを見計らい手紙を書いた。それはこれまでの人生で母から受けた厳しさから来る叱りや理不尽な怒りに対する苦痛さ、母の行う行為の全面否定、自尊心を傷付ける言葉の羅列など、これまで言いたかったが怖くて直接言えなかった事の全てを4枚の便箋に書き殴るように認めて書いた。

この手紙で親子の縁は切れる...そうでなくても何かしらのトリガーにはなるだろう。そう思った僕は手紙をテーブルの上にそっと置き、靴を履いてベランダから飛び降りて脱出した。その時間は早朝5時、まだ朝焼けすらない深淵の闇夜だった...

 

心の中で僕は母と弟に別れを告げると同時にどんな事があっても二度と帰らない事の決意を固めた。今の僕に頼れるのは職場の社会福祉法人だけだった...その後、緊急で出てきてくれた担当支援員さんや職場の施設長に事の顛末を語った。しかし急に飛び出した話でもあったので最悪の場合はシェルターか野宿になるのも有り得る可能性を孕んでいた。しかしそれでも僕は家に帰るつもりがなかったのでその事を宣言した。

その後、担当支援員さんの尽力もあって僕はグループホームに仮入居する事ができるようになった...

 

悩みの1週間

グループホームには2つの種類がある

ひとつは高齢者のおじいさんおばあさんが入所する介護老人福祉施設

そしてもうひとつは障害者が将来的に自立した生活を送る為の訓練をしたり、両親の他界等により身寄りが無くなった障害者の生活を送る場として使う少人数型入居施設サービス

グループホームには前に一度だけ母と共にグループホームの見学に行ったことがあった。将来的な自立生活をしてみたいという話が少しだけ浮上した時、僕の所属する福祉会が運営するグループホームにちょうど1件空きがあり、入居者募集中であるという事を聞き、見学に行っていた。

この時から既に自立生活をしてみたいという思いを持っていた僕は何より自分の部屋が持てる事にテンションが高まり、親元から離れてやってみたいという気持ちはあった。...しかし最終的にはやはり実家にいた方が楽で居心地が良い事に触れてしまったことでグループホームの入居は断念、法人側の人達は僕が入居する事を前提とした算段で事を進めていただけに大きな迷惑をかけてしまった...という経緯がある。

実は家出をする以前はグループホームに対して申し訳ないがあまり良い印象が無かった。既に入居をしている利用者さん同士で話している事から出てくるのは世話人に対する愚痴が主で、一部の人は成年後見制度が適用された事でお金の自由がない、外出や余暇の自由がない等色々な話が飛び交ってはいるがどれも悪い事ばかりで良い印象がなかった。そういう話を聞くとますます実家に居る方が快適で豊かな生活を送れると思い込んでしまっていたのが親元から離れた自立生活に舵を切る事が出来なかった最大の理由だった。

 

そんなグループホーム(以下GH)に1週間仮入居することになった。実際入居してみると意外に快適で、個別に部屋があってプライベートな空間を作る事ができるし、共同リビングは広々としていて快適、風呂も何十年ぶりかってぐらいの広々としたお風呂で最初にお風呂に入って足を伸ばせた時は天国だった...

食事や風呂の時間、就寝起床の時間は決まっているが、それに沿った生活の範囲内であれば自由な時間も多いので色々な事が出来る。そして何よりも親という存在が居ない生活というのがその時の自分にとってはとにかく最高で素晴らしかった。同居する利用者の人は優しい人も多く、第二の家ができたかのような暖かい空間に包まれた僕はその時、安心感からホロリと涙した。何よりも住む場所が確保されているという事実が想像以上の安心感を生み出しており、心から安心しきっていた。

同時にそこからの1週間は考える為の1週間でもあった。僕は過去に何度も家を出たいという願いや要望を担当支援員の人に相談したことがあった。しかし一度GHの相談をしてから入居ドタキャンをしていた事や、その場の喧嘩で生み出されたその場限りの怒りの感情が冷めた時、自己の中で大したことではなかったとして家に戻る、実家で落ち着くと言った結論を何度も出してしまっていたが為に、今回の家出から始まった家を出るという希望も本意のもの、真にそれを求める事なのかどうかを疑われている節があった。

だからそこからの1週間という時間経過によって冷静さを取り戻し、冷静になったその時でも家を出たいとするのか、それとも戻りたいと思うのかを見定める必要があった。僕の決意は家を出た時からダイヤモンドの様に固く、冷静になってから考えた結論としてもこのまま母と僕が一緒の家で過ごす事は有り得ないとする結論に至っていた。寧ろ母に対するトラウマがある僕は母との接触自体が恐ろしいものでしかなく、この1週間はずっと母の事を避けていた。その事を象徴するエピソードがある

 

実家から離れ、母との直接の連絡手段は全て断った僕だったが弟には何の罪もないとして弟とだけは連絡手段としての繋がりを持っていた。しかし母のそばにいる事で弟との会話は筒抜けになっており、ある時弟を介して母から家に来いと呼び出された。内容は携帯料金の支払いに関する事と家の事、特に家の事については家に来てもらわないと出来ない話だと言っていた。しかしそもそも家に戻る事自体が有り得ないし、もしも仮にここで戻ってしまったらまたしても母から凄まれる様な言い方で僕を責め立て、トラウマを植え付けるに違いない。そう思っていた僕はGHに居た職員さんの手助けもあって実家に戻ることを避けられた。しかし完全無視という訳にはいかず、電話ぐらいなら話をしようとして電話をしたのだが...

電話に出ると開口一番に母は「あなた何自分勝手な事をしているんですか?周りの事を考えず自分勝手な考えで動いて!」と、僕自身が家出をするに至った経緯の事を一切考慮せず、家出をした事自体に対する責めを僕にしてきたのだった。この時点で最早お話にならず、案の定電話口でも僕と母の会話は激しい怒号の応酬だった。その後電話を切ってGHに帰ると、途端に震えと動悸が激しくなって過呼吸気味になり、ストレスによる吐き気等、母に対するトラウマの症状は更に酷くなっていた...

 

GHで過ごす1週間というタイムリミットが迫り、刻一刻と時間が経って行く中で僕は色々な事を考えていた。これからの事、先々での住まいの事、お金の事、仕事の事、そして何よりも残された家族の事...

家出という行為によって借金を抱える事となった母と弟から逃げ出したという事実や取り残された2人の生活がやって行けるのかどうか、3年間ニートだった弟はちゃんと就職ができるのか、借金によって追い込まれていた母は精神的に大丈夫かどうか...喧嘩して間もない頃だったからこの時は意地の方が強くなっていたが、就寝前のベッドに寝転がった後は必ず家族のことが真っ先に頭に思い浮かび、僕は母と弟に対する心配の種が尽きなかった。実はこの時は自分がした行為が果たして人として正しかったのかどうかにまだ半分疑念が残っていた。

家庭内での精神破綻の末に家族の元から逃げ出したのも同然の家出をした事に対して本当にそれで良かったのかどうかに自問自答を繰り返す日々...帰る気はさらさらなかったが、家族を見捨てるという行為の罪悪感が自分の中で強く残っていたのかもしれない...

 

心無い手紙

精神的にいっぱいいっぱいだった状態からようやく冷静になれてきたが、まだ心の余裕は全くない状態だった。とにかくこういう色々な事があったんだという事を色んな人に話す事によってその話題に関心を持ってもらい、話を聞いてもらう事だけでも僕は十分な心のケアになっていた。中には色々な精神論でアドバイスをしてくれた人もいてその人の存在は心の支えにもなり、ありがたかった。

弟との連絡についてだが、この時の弟は母の追い込みによって精神が追い込まれる俺の気持ちを察しながらも母の味方でもいなければならないというどっちつかずな状態にいて、弟も追い込まれていた。母のいる手前全面的に俺を支持することが出来ず、お互いにトゲが着いた状態の俺と母とでは直接的に冷静な話が出来ないと分かっていたからこそ、間を取り持ち、和解させようと必死になっていた。しかしそのどっちつかずな態度が俺を更に追い込み、弟との連絡も完全に断つ事になってしまった。

 

詳細は控えるが、弟から受けたある言葉によって唯一の味方だと思っていた弟からも裏切られたという気持ちが強く感じてしまった。

自分の主張を認めてくれない人の所に居たくないという気持ちは更に強くなり、僕は更に帰らない決意を固める事となった。

 

13日は僕にとって重大局面の日だった

母が職場に乗り込むと電話口で宣言して乗り込んで来る予定の日だった...この時点で4日会っていない僕が母と会う日...まだ母に対して強いトラウマが残っていた僕は冷静に話が出来る自信が無かった...それでもどうしても母とは向き合わなければならない時が来る。その事をわかっていながらもその日は吐き気やストレスが半端ない事になっていた。

お互いちゃんと冷静に話ができるのかどうか、母はまた理不尽に自分を攻めたてるような事を言わないだろうか、母と向き合う自分は過呼吸などを起こさずにいられるのか?とにかく未確定な不安要素があり過ぎて僕は本当にストレスでしか無かった。ため息は出まくり、時々吐き気が出て気持ち悪くなる...自分が自分でいられなくなる不安を抱えながらも、母の乗り込みを待っていた。

 

しかし、やって来たのは弟のみで母は手紙を僕に送っただけだった。

 

本人が来なかった事に拍子抜けしながらも、見るのも恐ろしいその手紙を恐る恐る読む事にした。

しかしそれは内容としてはむちゃくちゃな手紙で、文面上は一見冷静さを取り繕っているが、家出を勝手な行動と決めつけた事、被害妄想だと断定した事、今所属している法人やそれに関係した職場を退職し、いちから人生をやり直せと言ってきたこと等、とにかく言いたい放題のオンパレード、そこに僕に対する謝罪や反省の言葉は一切なかった。手紙からも母の自分は悪くないオーラが滲み出ていたことに呆れ果てた僕はこの手紙を最後に母とは二度と会わない事を決意した。

この心無い手紙は僕と母との溝を更に深くさせるだけだった...

 

涙の話し合い

1週間のGH生活を終えた僕は名残惜しい気持ちが残りながらも最初に仮入居したGHを去り、次のGHへ仮入居させてもらえることになった。今度は2週間ちょっとの予定を立てており、僕が正式なGH入居をするために色々な手続きをしなければならない為少し時間がかかるという、要はその時間稼ぎのために空いたGHの中で人を回して事を進めているのだろう。

僕は住む場所さえあればそれで良かったのでどんな所に引っ越す事になろうが関係なかった。たった1週間で環境が変わるのは確かにキツい部分もあるがそうも言ってられない。習うより慣れろの精神で次のGHへ向かう事にした。

今度のGHは福祉法人の元アパート寮のタイプで、大きなリビングに各部屋が繋がっていたそれとは違い、それぞれ個人に鍵付きの大きなワンルームの部屋があり、構造は古いながらも水道、電気、ガス、ユニットバスがある本当に自分でアパートを借りて入った部屋のような擬似的な一人暮らしを体験出来るタイプだった。

そこでは職場で一緒に仕事をしている同じ利用者さんがいたので直ぐに馴染み深く接する事ができた。メンバーはそれぞれ個性的ながらもいい人達ばかりだったのでよく笑う時間が増えた。僕もだんだんGH生活には随分と慣れるようになっていた。

 

そして11月19日...僕はいよいよ本当の正念場に立たされる時が来た。13日の日に来なかった母が今度は19日に正式に来る事となった。僕の中では13日に来なかったあの手紙で手打ちだと思っていたのだがそうではなかったらしい。本当は会うことすら嫌だったのだが、直接会って聞いてみないと分からない腑に落ちない点もいくつかあったので、「第三者が話し合いの場に仲介して入る事」を絶対条件として母に突きつけた。母はそれを何とか了承していよいよその時は迫っていた。

 

そして...母はやってきた。話し合いは2時間以上に渡って話され、全てが終わった。

 

1週間以上振りに会う母の姿はどこか少しやつれていて、どうやら僕が家出をする際に置いといたあの手紙を読んだ事でショックを受け、精神科に通わなければならない程の心労を与えてしまったらしい...

 

最初こそは仲介人が3人いた事に錯乱し、帰ると意地を張っていたのだが、何とか支援員さんが宥めたことで話し合いの場につけた

そこで読まれたのは母からのもう一通の手紙だった。あれから母と弟は僕がいなくなってしまった家で何とか生活をするために就職活動を続け、借金を抱えて手持ちのお金が少ない中で就職活動費や精神科に通う病院代など色々なお金が掛かってしまい、本当に大ピンチになっているという現状が伝えられ、それと同時に母は自分が怒った時の言い方や言葉の圧によって僕の精神を追い込んでしまっていた事に対して謝罪をしてくれた。

そこで感じたのは母もまた今の苦しい現状と僕の家出によって精神的に追い込まれていたという事と、喧嘩の発端となったお金のピンチを乗り越える方法の思想の違いは俯瞰的に言えば単なるボタンのかけ違いでしかなく、しかしそのボタンのかけ違いによる歪みがどんどん広がった事によって僕と母の関係性は拗れる事となり、こんな現状になってしまった事...

母の思いに触れた事で僕は母の苦悩を理解し、母もまた僕の心理を理解してくれた。そして最終的に母は僕の自立を応援してくれた。僕はこれ以上母の事を悪く言うのはやめる事にした

 

一体いつから僕と母の間に言葉で言い表せない歪みが起きてしまったのかはもう分からない。けどその歪みがずっと続いたまま生活を切り盛りし、ピンチの時になると途端に不安定になる。もしかしたら自分が働いて給料を得て家に収めている事に対していつの間にか僕が驕った態度でいてしまったのかもしれないし、母もまた僕が家に奉仕をする事は当然の事だと思い込んでいてしまったのかもしれない。

話し合いの場で母は精神が安定しなくなって涙で鼻をすすっていた時もあった、その様子を見た瞬間僕の中で一気に罪悪感の重圧がのしかかってきた。本当だったらこういうピンチの時こそ3人が協力して乗り越えられるように頑張るのが一番だったのかもしれない。少なくとも僕がした家出や置き手紙の行為が母を精神的に追い詰めることになり、精神科通いをするほどまでになった事には本当に申し訳ないと思ってる。

 

今だったら、今この瞬間だったらやり直せるかもしれない。そう思った。しかし...

僕は僕の人生を生きる選択をする事にした。

 

どんなに冷静に考えても、このまま僕と母さんが同じ家の中で暮らす事が必ずしも良い結果に繋がるとは思えなかった。自らの意思で母さんの元へ戻ったとして、また歪みのある親子関係のままで過ごしていく中で綻びが起きた時、今回以上の酷い結果に繋がらないとも限らない。僕も、母さんも、精神衛生上離れる事が最良の選択だとこの時の僕は改めて思った。

それでも僕はここまで育ててくれた母さんや同じ時を過ごしてくれた弟には感謝の気持ちを述べた。これから先の人生で共に暮らすことは出来ないし、サポートをすることは出来ないが、2人には2人の人生を生きて欲しい...と、お互いに苦しい状況になるだろうけれど、それを乗り越えてまた会いたい。そう最後に言い残して話し合いは終わった

 

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この日の夕日はとても綺麗だった...気の所為かもしれないが、まるで自分の人生の新たなる門出を祝うかのような美しく暖かい夕暮れに照らされた街並みを見た時、自分の新たな人生がスタートした気がした。そして11月19日という日は母さんにとっても、弟にとっても重大な意味を持った日になったのかなと、家族に思いを馳せる事となった...

 

それから...

ここから自分の新たな人生をスタートさせることにした。家出をする時に必要な重要な貴重品は全て持ち出し、服はあれから弟が持ってきてくれたりなどしたので充実して揃うようになって来た。ただし、僕がこれまで集めていた漫画やゲームのコレクションは全て放棄する事で合意をした。残された母さんと弟にも人生があり、そして何よりもお金が必要不可欠だった。2人が上手く就職できたとして、生活基盤が安定するようになるまでには幾許かの時間が掛かり、そしてお金も掛かる。そんな中で僕は僕だけ漫画やゲームを全て持ち出して悠々自適な生活をしていこうとするつもりは毛頭無かった。それを売り払う事でお金が出来て、2人の生活苦が乗り越えられるのならそれで良かった。

仮にも自分のお金で買ったものだから所有者としての権利は自分にあり、持って行かせてくれと言うこともできただろう、しかし僕はその全てを放棄し、ゼロからやり直す事に対して躊躇はなかった。せめてもの2人に対する贖罪...とまではいかないが、自分の好きなようにさせてもらって得た物を持ち出す権利は僕にはないと僕自身がそう決めたからだ。

これもまた子供の頃からずっとそうしてきた自己犠牲精神の表れなのかもしれない...

 

少しずつ、少しずつ取り戻していけば良い

そうする事で僕は自分の力で余暇を充実させる事ができるという自負が付くからだ

 

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新しい仮住まいのGHからは朝日が昇る様子が見える。毎朝6時頃この朝焼けを見る度に僕は色々な事に思いを巡らせる。

自分の人生の事、家族の事、友達の事、SNSのみんなの事、今はどうしているのだろうと...皆がこの同じ空を見て、同じ朝日を拝んで、今日の一日の始まりを迎えているのだろうかと...これから先の生活にまだまだ不安な要素はいっぱいあるが、不思議と乗り越えられるだろうという根拠の無い自信に満ち溢れていた。

 

将来的な自分の人生がこの先どうなるのかは本当に分からない。ただ僕は障害者である事を乗り越え、普通の人に近い人生を送りたい。自分にとってどんな人生の歩み方が最も幸せなのかはまだ分からないし、それは永遠のテーマかもしれない。それでも僕は前へ進み続ける。

 

幸せを掴むために、僕は僕として

より良い人生を過ごしていこうと思う...

 

最後に近況報告

家出をしてから明日で丸1ヶ月...おかげさまで正式にグループホームに入れるところが決まりました!引越しはもうすぐやってきます。

そしてその際、本当にものの見事に家具とか道具などが一切ないゼロからの状態で始まるので少しずつ少しずつ物を充実させていく生活方針で行こうと思います!

こうしてここまで来れたのも自分の周りの人達からの助けもあり、そして皆さんのおかげでもあります!将来を見据えてこれからの自分の人生を慎ましく、そして楽しく過ごしていこうと思いますのでよろしくお願いします!

 

まずはベッドを買わなくちゃ!(笑)

 

ニホンバトより