ポッポ屋日記

日記的なブログにしたいです

僕の家庭内事情

 

こんにちは、ニホンバトです。

皆さんお元気でしょうか?僕は元気です。

普通に朝起きては支度をし、仕事に向かい、実労働6時間の勤務を終えて家に帰り、日々の生活をしています。

 

しかし時折僕は日々の生活を過ごしていく中で最低1年に1回、心が疲弊して心が折れそうになる時があります。それが母親との大喧嘩です。

 

本来あまりこういう個人の家庭内事情をブログに書くべきではないと思うのですが、今回はニホンバトというTwitterでの仮面は捨てて僕のリアルをここに記して置こうかと思います。

 

尚、最初の文から途中までは僕の半生を語ります。問題の母親に対する悩みを綴った文は下の方にあるので興味のない方はスクロールしてください。

 

家族構成

僕の家庭は元々4人家族だった、福岡出身の父と東京出身の母が結婚をし、僕と弟の2人の子供を産んだ。

若い頃恋人関係にあった父と母は外資系企業のサラリーマンを務める父が海外転勤をしていたのを母は追い掛け、一緒にアフリカで過ごしていた事もあったらしい。転勤先の現地で母はアフリカの地で僕を身ごもり、日本に帰国後に出産、1997年7月14日...僕はこの世に生まれた。

初めての子供に喜んだ父と母はその後色々あって埼玉に引越しをしてこの地に定住する事となった。東京から離れて引越しをするにあたって父は脱サラ、地元の建設、建築資材の配送会社に勤める事となり、生活が始まった。

そこで僕はすくすくと育った、翌年には年子の弟も誕生し、4人家族になった。その時の母は今や絶滅危惧種となっている専業主婦、ごく普通な平凡な家庭で育った普通の人生だった。

 

しかし僕が幼稚園生から小学生になる時、ある事実が発覚した。

 

僕の先天性の知的障害だった

 

母いわく、幼稚園生の頃から僕は周りの同級生達と比べて簡単な言葉すらも喋れず、周りの子が積極的におもちゃなどで遊んだり、絵を描いて遊ぶなどの知的行動をしている中で僕は隅の方で大人しく座ってる事も多く、周りの子達に馴染めず先生にベッタリな事が多かったんだという報告があったらしい。

それだけを聞くと単におとなしくて人見知りな子なんだろうと思うだけかもしれない。何せ知的障害の定義というのは明確に決まった定義というものがあまり存在せず、これまで障害者に対する理解や認識がまだまだ足りなかった当時の日本では普通の人として認識される事も多く、単にだらしない子として特別扱いされることは無かった。その子が本当に知的障害なのかどうかは知的障害を抱えた人との交流をしていてそれなりの経験を持った人でないと見抜くのは難しい。

そんな中で僕の知的障害を見抜いたのは当時から知的障害の子供たちの教育クラスを受け持つ特別学級の担任の先生(仮名 Nさん)だった。N先生は入学前の見学にやってきた僕の様子を見てどこか違和感を感じ、N先生と二人だけで面談、その受け答えを見て即座に「この子には知的障害がある」と断定したのだった。その事を聞かされた母と父は当時大ショックだったという、両親の家系には知的だけでなく何らかの障害を抱えてた人は親族、親戚には誰も居ない。両親も至って普通の健常者であるにも関わらず、突然変異的な形で息子である僕が知的障害児だったという事実の突き付けが非情で残酷だったという...

ただ僕にとっては生まれ持った時からそういう人間であったから、幼い頃の僕が普通の子とは違うという事の自覚が無かったし、ある程度の理解が追いつくようになった時でも僕自身、障害児である事にコンプレックスのようなものは一切なかった。有難いことに僕はこれまでの人生で障害者である事を理由にした差別を受けたことは無いし*1身分的立場上そうなのかもしれないがそれはそれ、これはこれと考えていた。

両親も最初こそショックは受けたものの、そんな僕の存在を快く受け入れ、僕は特別学級に入った。父は教育に厳しく、時折夫婦喧嘩する事もあったが父が夏休みの時には旅行に連れてってもらったり、そうでない時でもみんなで出かけて一緒の時を過ごしたりと家族として過ごした日々は当たり前のように流れて幸せだった。

 

しかし、そんな幸せな人生も長くは続かなかった

 

父の突然死

2009年9月17日...父はこの世を去った。

まだ40代半ばで僕は当時小6だった。

死因は池江璃花子選手も患った事で大きな話題となった「骨髄性急性白血病」だった。会社の健康診断で異常なまでの白血球の多さにおかしいと思った担当医師が要精検を提出、大学病院で検査したところ急性白血病だと判明、即入院する事となり、その知らせが学校に急報として届き、僕は父の会社の人のトラックに乗り病院へ向かった。

その時の父は病床についていながらまだピンピンしていたのをよく覚えている。白血病という聞いたことも無い様な病気の事を聞かされても当時の僕にはまだ理解が出来なかったが、あの時は直ぐに治療して帰ってくるもんだと、僕も弟も母も、そして父本人も誰しもがそう思って疑わなかった。

しかし現実は非情で検査をして白血病が判明した時にはもう既に末期症状に近い状態にあり、一刻も早い骨髄移植が必要な状態だった。当時はまだ白血病に対する骨髄移植以外での有効な治療法が確立されておらず、治すのが難しい病気だった白血病は死亡率が高く、悪魔のような病気だった。最初は元気そうにしていた父はみるみるうちに衰退、入院生活から僅か2週間...父は突然居なくなってしまった。

 

あの頃の事は今でも忘れられないほどの衝撃的な事態だった。病院からの連絡で父の危篤を知らされた母は僕と弟を連れて病院へ急行、今夜がやまかもしれないと医師から聞かされた母はショックのあまり僕と弟を連れて病院の外へ行き「もしかしたら...もうお父さん死んじゃうかもしれない...」と涙で上擦った声で聞かされ、事の重大さをここで僕は思い知る事となった。

父親が居ない事の事実、片親だけで暮らしていかなければならないこれから、当たり前だと思っていた日常が崩れ去っていく、ここから先の人生が大きなうねりとなり、波乱になる事を僕は子供ながらに覚悟していた。

その時母は駆け付けた母方の祖父祖母、父方の祖父祖母との話し合いをした末、まだ子供である僕と弟が父親の死を目の当たりにするのはあまりにもショックが大きすぎるだろうとして死に目に会わせない判断をとった。父が亡くなった瞬間、僕は病院の待合室から見える月をながめていた...

 

それからというものの色んな事が起きた

父の亡骸を前にして涙が収まらなくなり、僕は延々と泣き続けた。葬儀を開いたら当時の特別学級のクラスメイト、健常児の同級生クラス、学校関係者と色んな人が駆けつけてくれた、僕と弟は葬儀会場の入口で弔いに来てくれた人に挨拶をする役割をしていた。告別式をした会場は神妙で陰鬱とした空気が渦巻き、僕も弟も含めて皆が喪服で悲しい顔を並べていて、涙で言葉を詰まらせながら弔辞を読む母の姿を見て、あの当時の僕にとってはこの状況が信じられない程の光景に見えて...もう二度とこんな状況に立ち会うことはしたくないと思うほどまでに悲しかった。

それからの母はショックで米もろくに炊けない程の状態に陥り、僕や弟はどうすればいいのか分からない状態だった。あと半年程で学校卒業が控えていて中学に上がるという大事な時に起きてしまったショッキングな出来事、母にとってはこれから先どうやって僕と弟を育てながら生きていかなければならないのか、路頭に迷う寸前だったと母は当時の事を聞かせてくれたことがあった。

あの頃の僕は父の死を目の当たりにしてこれから先の人生を兄として、母そして弟を引っ張るつもりでやっていこうと決意をしていた。これから先どんなに厳しいことになったとしても、僕達三人は乗り越えていくんだ...!そう決意していた。

 

引きこもり学生生活

父の死後、何とか片親でも僕と弟を成人まで育て上げようと心に決意していた母は資格の猛勉強をして介護士の資格を取った。まだまだお金も掛かる食い扶持である子供二人を抱えながら家事をこなし仕事もする...そんな普通だったら地獄のような人生に対して当時の母は人一倍誰よりも努力をした。これまで専業主婦として仕事面での経験がない中で資格を取り、働く努力を重ね、僕と弟のために本当によく一生懸命に頑張って育ててくれた。その事に対しては今でも僕は本当に有り難さで頭が上がらない部分もあるし、絶大な感謝をしている。だから当時の僕はそんな母を支えてあげたいという気持ちが強く持っていて将来の展望としては母を支える事が第一だった。

しかし、唐突な父の死は生活環境に大きな変化を起こす事となり、ショッキングな出来事に立ち会った事もあり、その当時の置かれた状況、環境の変化に僕は無意識的に大きなストレスを抱えていたらしく...

 

中学2年の夏から僕は突然学校に行かなくなった

 

別に学校生活に不満があったとかいじめられてたとかそういうことがあった訳じゃなかった。むしろクラスメイトはみんな好意的に接してくれるし先生は僕達の指導に熱意を持ってる。学生生活を送る環境としては最高の場所であったにも関わらず、僕は不登校状態になった。唐突な学校に行かなくなるという行動...自分でも正直どうしてあの当時あんな行動を取ってしまったのかが今でも本当によく分からない。ただあの時の自分は極度の学校嫌いになっており、絶対に自分から行きたがろうとはしなかった。それがどんなに愚かな事で、自分の将来を潰していく大変な行為であるという事を分かっていたとしても僕は登校する事が出来なかった。

母にはその事に関してだいぶ頭を悩ませてしまった。「行かないの?」と声を掛けられても僕は行く気にはならず、家の中でダラダラと過ごしていく日々...何度声を掛けても行くという行動を示さなかった僕に業を煮やして「もう知らない!」と怒られても僕は一向に登校する気にはならなかった...

その当時の僕の生活は親の影響の事もあって昼夜逆転生活は熾烈を極めていて起床は午後1時、就寝は朝の4時5時というのが普通の状態だった。午後に起きた時の倦怠感は並大抵のものではなく、起きても「どうせこんな時間になっちゃったから学校なんか行っても...」と思い込んで行く気力は1ミリも湧かなかった。時折先生が訪問をしに来てくれた事もあって、今の生活状況を聞いたり、プリントを渡してくれた。その事に感謝はすれど、それでも学校に行こうという気は起きず、自分でも悪いと思っていたが本当に学校に行く事は出来ず、ごく稀に行っても不登校の僕とでは特別学級のみんなとは馴染む事が出来ず、自分の中で孤立していたから楽しくなかった*2

その頃から僕は既にネガティブ人間になっていた。どうせ何をしても無駄で努力なんかする気にもならない、今から頑張ったってここまで燻ってしまった自分に何が出来る?何が望める?何が手に入る?どうせ自分はダメな人間だと諦め、最初からあらゆる物事に対してひたむきに頑張ろうとする努力すら見せなかった。後悔する気持ちだって本当に心の底から後悔してるのか?あの時の自分は今のままでも生活に支障はないから良いや〜って思ってたんじゃないか?と疑うほどまでにダラけていてどうしようもないほどのクソ人間だった。一時期Twitterでネガティブ状態に陥っていた時もあった僕だが、あれがある意味僕の本性というか、ネガティブな僕こそが本当の自分でもあったので、ネガティブな事を呟くことに僕は苦痛を感じる事は無かった...

今この場にタイムマシンがあって過去の世界に戻れるのなら僕は間違いなく不登校時代の僕の元に訪れてぶん殴っている。ボコボコにしてその根性を叩き直してやる!とスパルタになっていた事だろう...

 

父が亡くなる前は決してこんな事を考えない明るい子供だったはずなのに、父の死後僕の性格は大きく変わってしまった。特に成功体験の経験に乏しい僕は何に対しても後ろ向きで諦めがちでネガティブ思考が止まらない。ネガティブスパイラルに何度も陥った僕は負の連鎖から抜けられない状態にいた。

これは後々、僕が成人してから調べて分かった事なのだがある日突然不登校状態になってしまう子供は僕以外にも普通にいて珍しいことではないらしく、特に中学から高校期に掛けて不登校になる子供の特徴として幼少期から小学生の頃にショッキングな出来事に立ち会った事、生活環境が大きく変わる事による潜在的なストレスが突然爆発する形として不登校になってしまう事があるらしく、しかもそういう子供に限って不登校期間が長くなる傾向にあるのだという...

果たしてそれが学術的理論に基づいたものなのかは定かではないが、その説明を聞いて妙に納得した部分が多々あった。言い訳にしかならないかもしれないが、小学校の卒業直前に父親が突然亡くなり、当たり前のようにあった生活環境は大きく変化し、仕事から帰ってくる母親と時折トラブルや喧嘩をする日がでてきたりと、上手くいかない色んな事があり過ぎてそれがストレスになっていたというのも妙に納得ができてしまう。

 

そんな僕の不登校時代は中学を卒業*3して高校生になっても続き、最終的に不登校から抜け出せたのは高校卒業前の4ヶ月、実に5年近くにも及ぶ不登校期間を経て僕は社会人になって行った

 

社会に出て、成人を超えて...

話は少し前に戻るが僕が不登校を脱出した切っ掛けは大きな危機感を感じての事だった。もしもこのまま自分が怠惰な生活を送り続けたら結果どうなってしまうのか?きっとろくでもない人生を送り、最後は犬死に...あるいは犯罪を犯して囚人生活になる事だって有り得る。そんな人生送りたいか?否、絶対に嫌だった。

本当に抜け出す切っ掛けは些細な事だったが、自分の中で大きな危機感を抱いた事はようやく一歩前へ歩むことに繋がった。何度も僕の事を気に掛けてくれた担任の先生には猛烈な反省の意を示し、卒業4ヶ月前になっても就職出来る所を探して尽くしてくれた。そして今でも働くあるグループの就労継続支援施設に入所する事ができた僕はようやく社会人になる事ができた。

高校卒業式の時、担任の先生の1人は僕にこんな言葉を投げかけてくれた

 

「お前はこれからの3年が大事だぞ」と...

失われてしまった5年分の時を埋め合わせるために僕は人一倍努力をしなければならない、その事を肝に銘じるつもりで掛けてくれた先生のあの言葉が僕は今でも忘れられない。例えどんなに落ちぶれた奴でも見捨てずにいてくれた学校の先生には本当に心の底から感謝している。あの方たちがいなかったらきっと今の僕はいなかっただろう。

 

社会に出た僕は今の担当相談員の人とヒアリングを重ねながら働きに出ていた。しかし当時僕が働いていた就労継続支援施設にはA型とB型という施設があり、Aはごく一般的な健常者がバイトで働くのと同じように一般社会に近い多種多様な仕事をこなせて時給も出る、周りの人も知的障害が軽い人が殆どである事に対し、僕が入ったB型施設は基本的に働く人は障害の度合いが重い人の割合が高く、仕事内容も単純作業で賃金は月に手取り3万程しかない仕事だった。幸い悪い人はおらず、仕事の環境としては最高の環境ではあったのだが如何せん給料が安過ぎる事に僕は不満を持っていた。

その当時の僕は「母のために尽くす!」という決意が強かったのもあって、こんな雀の涙ほどの給料じゃ生活費に充てるのだって少な過ぎる、みんなどうやって生活してるんだ...?と疑問に思ったのだがどうやら障害が重い人は障害年金が貰えるらしく、雀の涙でもみんなが不満を持たずにいたのは障害年金があっての事なのだろう。残念ながら僕は障害の度合いが軽かった事で障害年金の受給資格が無く、雀の涙だけが僕の収入源だった。

それに人によっては昇給した人もいるらしく、通勤を継続していけば僕もいずれそうなる予定だった、けれどいつまでも続いて内容が変わらない単純作業の連続、どんなに働いても手取り3万の給料に充実感もへったくれもあったもんじゃない、僕はまたしても無断欠勤をする日々に陥ってしまっていた。

これからが大事な時だと先生から卒業式の時に言われたばっかりなのに、高校卒業直前のあの時ちゃんと頑張って努力したはずなのに、どうしてまた...しかしそれでも僕は反省をし、思い切ってA型施設への異動を直談判した。本来であれば確かな労働をしたという実績を残さなければ行けない道、僕がこの2年半の間で実績も残せていない状態で賃金形態が悪いからA型施設に入らせてくれと言うのはそのグループの歴史の中でも異例中の異例だった。

本来であれば実績も残せてないやつが入れるわけがないとして門前払いを食らう所だが特別に1ヶ月の実習を経て入所を決めるかどうか経過観察すると打診してくれた。ここが最後のラストチャンス*4だと思った僕は1ヶ月の実習を無遅刻無欠席で仕事も精力的にこなした。そしてその結果晴れて現在のA型就労継続支援に入所する事ができた。

 

それから丸2年...雇用契約も結んで時給が出るようになった僕はようやく最低限の生活ができそうな程の額を貰えて満足していた。

 

そして今に至るのであった...

 

成長と共に感じる母への悩み

母はひとり親として苦労が多いであろう男ふたりを育てるために尋常じゃないほどの努力をしてくれた、さっきも書いたがその事に対しては本当に感謝の気持ちは今でも持ってるし、その思いを無碍にするつもりは微塵もない。

しかし僕は時折母の言動について頭を悩ませることが少なくなかった

母は元々優しい性格のはずだった、父が存命だった頃は父の方がスパルタ教育が激しかったため、そんな父の厳しさに母が優しさで励ましてくれる、そんな存在であったはずだった。しかしそんな母でも唯一厳しくされたのがお金に関する事だった。

言っちゃえば母はドケチだ、超ドケチだ。長年父が貰った給料の管理を母がしていたのもあって母はお金に関する、またはそれに繋がる失態をすると烈火のごとく怒り狂う。例えば僕が小学生の頃、お使いのお釣りの10円を落としてしまった時に母は怒り狂い「落とした10円探してこい!!!」と激しく叱責された、その時の形相があまりにも恐ろしかった僕は泣き出してしまった、すると父は「10円ぐらい良いじゃないかよ...」と庇ってくれた...が母は「10円ぐらいなんて舐めた事を言ってたらお金にだらしなくなるからダメよ!」と父の擁護を一蹴、僕は夜も深けた中で買い物に行った道を戻りながら10円を探す事になり、10円が見つかるまでは一切家に入れてくれなかった。

思えばこの時から母のお金に対する執着心が異常だったのかもしれない。もちろん僕だってお金は大事だし、お金を落としたことに対してはかなり焦る。しかし今考えてもたった10円を落としたことに対して子供一人で夜道を探させるのは頭がどうかしてる。見つかったからまだ良かったものの、見つからなかった時にはいったいどうするつもりだったのか?

 

それと母は何かにつけて「弁償しろ!」という言葉をよく使う、例えばうっかり物を壊してしまった時は壊した物代を弁償しろ!と言い放つ、まだ働く事もできずお金を生み出す能力もない中学生の僕に向かってである。お風呂を使った後にガスの元栓を閉め忘れて放置してしまった時には爆発したらどうすんの!?という言葉と共に「お前がガス代払え!私は一切払わんからな!」と突き放す言葉を浴びせかける。当然そんなガス代を支払うなんて無理な話だった僕には理不尽極まりない言葉であり、どうすることも出来ずに泣き出すしか無かった。

そして僕は子供の頃から実際に金銭的責任を取らされた事があった、それは僕がこれまでの人生でプレイしてきたゲームソフトやゲーム機本体を売り払うという売却責任だった。

僕がこれまでプレイしてきたゲームは全て母が買ってくれたものである、だから所有者は僕でありながら購入者は母である為、母は問答無用で売り払うことを厭わなかった。僕がこれまでプレイしてきたゲーム歴が長いにも関わらず、今現在ソフトや本体を持っていない事の殆どの理由は売却責任として売られたか、生活困窮状態を脱する為に仕方なく売るというしわ寄せから来るものだった。もし僕が買ってもらったゲームを売っていなかったらゲームの数は相当数になっていたはずである。

あの時の僕はそんな理不尽とも取れる言葉を浴びせかけられても耐えるしか無かった、ただひたすら謝ってもう二度と同じミスはしないと誓って、泣きながら謝る事しか出来なかった。

しかし今の僕は思う、子供にお金の大切さを教える事は確かに素晴らしいことではあるのだが、だからといって支払い能力がない子供に向かって弁償しろ、責任取れと怒号をあげながら金銭を要求するのは親としてこんなおかしな話は他に聞いたことが無い。よく僕の精神が崩壊しなかったもんだ。

 

しかしそんな責任取れや!とよく言う母であるがそんな母にだってだらしがない所が色々ある。まず父と同じく母はヘビースモーカーだ、生活費の中にタバコ代は当たり前のように入っていて、ストレスの発散の為にタバコは当たり前のようにプカプカと吸っている。つい最近電子タバコに変えたがそれでも毎月のタバコ代は結構馬鹿にならない。非喫煙者である僕からしたら「禁煙してタバコ代を無くせば少しは生活が楽になるのでは...?」と思うのだがきっとこの考えは一生理解されないであろう。

そしてもっとダメなポイントは母はパチンコにも行くしかも娯楽として遊ぶための1パチではなくガッツリ稼ぎに行くための4パチで僕にとってはパチンコの様なギャンブルに行くことこそが最も信じられない行為のひとつで、母は自分でパチンコ依存症じゃないと言っているが、久しぶりに行って負けて帰ってきた時に明日リベンジしに行く!と考え行く時点で母は立派なパチンコ依存症である

その事については元友人もパチンコに行くという母の行為自体にドン引きしており、僕が母と喧嘩した事を伝えると「パチンコに行くくせに...」と僕の母を蔑んでいた。苦労して働いてお金を稼ぐという事を少しでも感じる事が出来た僕には本当に信じられない事だ、パチンコに行って勝ち越す事は絶対にない。パチンコに行かなければ0円で済むがパチンコに行った時点で100%マイナスになってしまう。

稼いでやろうと意気込んで投資したその1万円で何が出来ると思う?ちょっと豪華な食事をしに行こうとファミレスでご飯食べに行くだけでもお釣りが出る、1万円もあれは素晴らしい名作ゲームソフトを買ってパチンコ以上に充実感のあるライフスタイルを送ることだって出来る、そんな最もお金が掛かって損しかしない、充実感もない趣味なんか僕は絶対にしたくない。だから僕は一生の中でタバコとギャンブルと借金だけは絶対にしたくないと決意しているのだ。

母は生活に支障が出ない程度で抑えてると言っているがアレは絶対に嘘だろう。パチンコさえやらなければ支払えていたかもしれない支払いだって絶対にあるはず、稼ぎに行こうとパチンコに行く時点で母の金銭感覚も大概なもんだ

 

それと母はよく支払いを滞らせるし滞納もする

一時期携帯電話の料金が払えなくて止まったこともあるし、市税が払えなくて役所から「至急開封!」の封筒が来ても開けずに目を通すこともせず、ほったらかす。いったい何を考えているのか僕にはさっぱり分からない。単純に支払うお金が無いから支払えないんだと思うのだがそれでも1回は必ず請求書に対しては目を通すだろう、もはや母さんには支払う意思がないのでは?と思うほどこういう所にはとんとだらしない。

一家のお金を握る人であるのなら家計簿ぐらいはつけるだろう、しかし母は家計簿をつけていない。僕ですら去年から小遣いの管理をする為に家計簿アプリをダウンロードして金銭感覚を身につけてるというのに家計簿をつけないのは本末転倒!正直、家計簿をつけていない事で自分でも分かってない支払いとか金銭感覚の乱れがあるんじゃないか?と僕は思ってさえいる。こんなだらしない人にお金の事云々で色々言われても全然説得力もない。一家の長としての自覚があるのならそういう所は本当にしっかりして欲しい

 

母に関するダメエピソード三選

遅れてやってきた反抗期なのか、最近の僕と母は色々な所で全くと言って良いほど価値観が合わない。中学の頃から色々と抑えつけられていた自立心や個としての主張という事をやるようになったからなのか僕は最近母に対しては反抗的な態度をとっている。特にお金が大ピンチ!って話を聞かされた時には正直呆れの気持ちしか出てこない。これまで喧嘩の時に言われた罵詈雑言の事もあって僕は母さんに対して不信感しか抱いていない。

 

そんな母のダメエピソードを3つここに記そう

 

  • 中学生の僕に祖母から金を借りるように頼みに行かせる

母の働きだけではどうにもならないほどお金がピンチになっていたことがあった。その事に対してどうしようと悩んでいた時、母は不本意ながらも仲が悪い自分の母、つまり僕の東京の祖母にお金の工面をしてもらうように頼んでいた。しかし母の金にうるさい性格はどうやら祖母譲りだった様で、疎遠状態になっていた母と祖母は電話口で大喧嘩、祖母は「金にだらしないあんたが悪い!金なんか貸さん!」と門前払い、しかし母も「じゃあどうにもならなくなったら死ねって言うのか!!!」とこっちも引けを取らない。らちがあかなくなった母はお願いがあるのという言葉の後、とんでもない事を僕に頼み込んだ

 

「おばあちゃんの所に行ってお金を借りてきて欲しいの」

 

しかもみんなでではなく、僕一人でだった。

何故母はそんな事を僕に頼んだのか、母の企みとしては祖母との関係性が悪い自分が頼むよりも孫の僕から頼まれたら流石にあのクソババアも要求を飲まない訳には行かないだろうと打算してというクソみたいな考えがあっての頼みだった。その時の僕は正直な話、嫌だった。ただでさえお金に厳しい一面がある所を家族で顔をのぞかせに行った時でさえ肌で感じていたのにそんな100%トラブルになる頼みを僕に押し付けるようにお願いをするのなんてどうかしてると思った。

しかし、当時中学生の僕に出来ることは確かに母さんの頼まれごとをするしかない。本当は嫌々ながらも「分かったよ」と引き受けることにした。1人でバスに乗り、東京の祖母の元へ走り出す...果たして本当に上手くいくのか?僕が金の話をしたらおばあちゃんはどんな反応をしてしまうのか...?バスに乗ってる時も、電車に乗ってる時も僕の心は不安でいっぱいで最後の最後までその不安は拭いきれなかった。

 

そして祖母のいる団地の扉の前まで訪れた時...心臓がバクバクしながらも意を決してピンポンを押した...

 

\ピンポーン/...ガチャ

「やぁおばあちゃ...」バタン!!!

「帰れ!話したくない!」

 

祖母は僕の顔を見た瞬間即座に扉を閉めて鍵をかけた、どうやら母に頼まれて来たのを勘づいたようで、例え孫の僕からの頼みであろうと受け入れるつもりは無かったようだ。この時点で僕の心は既に折れていた

しかし僕は「ねぇおばあちゃん開けてよ!」と扉を叩いた。何故そうしたのか?僕は出発の直前「もしおばあちゃんがお金を出さないって言ったらどうするの?」と母に聞いた、そしてその母の回答が

「まず中に入って、お金をくれるまで帰らない!って言いなさい」

というそんな非情な事を頼む母は本当にクソの極みだと思った。僕は孫としてこんな事をしたくはなかった。けれどお金が無いのは事実で、母さんが頼れるところは実家しかないんだとするならそれしか方法はないんだろうと当時の僕は思い込んでいた。だから非常に心苦しかったが、僕は扉を叩いて開けるように要求した。

何度も何度も、近所迷惑にならない程度で扉を叩いて開けるように必死にお願いする...するとそんな僕を可哀想だと思ったのか、おじいちゃんが扉を開けてくれた。あの時のおじいちゃんは認知症が進んでいたのだが僕の事を認識して扉を開けてくれた、その優しさに涙しそうになった。

 

しかしまだ問題は解決していない。僕は母から頼まれた祖母にお金を借りるという地獄のようなミッションをこなさなければならない。無理だとわかっていてもその時の僕にはダメ元で頼み込むしか無かった。

しかし何度要求しても祖母は僕の頼みを聞き入れてくれず(当然だが)僕は言いたくなかったが母さんに言われた通り、「お金を貸してくれるまで帰らない」と宣言した。その時の祖母は苦虫を噛み潰したような渋い顔で僕を見やった後、外へ出ていった。

僕は正直ほっとした、こんな話したくないし、その話をしてしまったせいで部屋の居心地が悪い、すぐに戻ってくるだろうと思いながら暫しおじいちゃんとの会話を楽しんでいた。

 

しかし...

 

祖母はある人を連れてきていた

 

それは警察官だった...

 

 

.......祖母は...祖母は外に出たあと警察署に駆け込み「暴漢が家に入ってきて暴力を振るわれてる!助けて!」と僕を暴漢扱いして通報したのだった...パトカーと共にやってきたお巡りさんは僕を見て事情聴取した、そこで出した療育手帳を見て祖母と祖父と親族関係にある人だとお巡りさんに認知された。すると警察の人は祖母に「事件性のない事で通報しないでください!」と叱責、祖母は不服そうな顔をしながらも僕を追い出せればそれで良かったようだ...

 

僕の人生で1番のショックだった

やりたくもなかったお金の工面のお願いという頼みを引き受けてそれをやってしまったがために好きだったはずのおばあちゃんから暴漢として警察に通報された、その事実自体に僕は死にたくなるほどのショックを受け、絶望した。

未成年だった僕に対してお巡りさんは「パトカーで駅まで送ってくから、帰りましょう?」と言ってくれたその言葉に僕は素直に受け入れるしか無かった...パトカーの車内で祖母のいる団地を離れていけば行くほど僕の心はズタボロになって思わず大声を上げて泣きだしてしまった...

僕は自分の行動でひとつ縁を失ってしまった。

それも大切な存在のはずだった人との縁を...

泣きじゃくる僕を見るお巡りさんの表情は何とも言えない可哀想な子を見て憐れむ人の表情で...それが余計に悲しく辛かった...

 

泣き過ぎて放心状態になった僕はそのまま家に帰った、そしてこんな事になってしまった原因の張本人である母に経緯と結果を報告した

その時の母の反応は「あのクソババアが...!」とこんな嫌われ役を買って出た僕に労う言葉などひとつとなく、祖母に対する恨みを強くするだけだった

 

あの時の事は今でもよく覚えてる...けどもう二度と思い出したくないパンドラの箱に封印していた出来事だった。祖母との縁切りが僕が人生で初めて切れた人との縁切りだった...

あんな事もう二度と頼まれても僕はやらない、大切なものを失った事のショックはそれから数年引きずる事となった...

 

  • 僕の友達との接し方に口出しして自分の意見を押し付ける

僕はTwitterで出会った元友人との交流を楽しんでいた。いつしか親友とまでに呼べる関係になっていた時のこと、僕は家が近いということもあって友人の家に泊まりに行きたいと思っていた。お互いに顔も名前も知った友達同士、それまでの学生時代には出来なかった交流を僕は楽しみたかった。しかしそこを阻むのが母の存在だった。

僕が友人の家に泊まりに行きたいと言うといきなりダメよと言った、「何で?」と聞くとネットで出会った人の家に泊まりに行くなんて言語道断とのことだった。しかしこの時から既に母に対する不信感を持っていて反抗するようになっていたこの時の僕は母を説得しようと必死だった。それにしてもこの時の母の言うことは色々と理不尽な感じておかしい事ばかりだった

 

僕が友人に会いたいと言えば

「会うならお互いのいる場所から一番中間の地点で会いなさい、あなたが友達の元へわざわざ向かうのなんておかしい」と言い

 

僕が友人と飲みに行きたいと言えば

「じゃあ絶対に奢ってもらうなんて考えちゃダメよ、それが例え相手からの好意でそうするって言っても奢ってもらった時点で奢る、奢り返すの関係性になっちゃうから絶対ダメ」とのたまり

 

友人が車もってるから迎えに来てくれると言った時には

「車なんか絶対乗るな!事前に話し合った計画で出かける予定を立てていてもその友達がノリでなぁ今からちょっとラーメン寄らない?とかそんな予定にもないこと言ってきたらどうするの!?あなた否定できるの!?」と叫び

 

挙句

「どんなに自分が信頼しているつもりだったとしても相手のことを100%信頼なんかしちゃダメよ!」と言う始末

 

めちゃくちゃである

まずお互いの中間地点に会う云々の話に関してはそんなの僕も友人もお互いがどうしようと自分たちの勝手だし、何故そういう会い方をガチガチに指定されなければならないのか?

奢ってもらうに関する話でも奢ってあげるよと言ってくれてるのに相手の好意を受け取らないのは失礼だと元友人が言っていた様に、奢ってあげるという言葉に対する母さんの対応は逆に失礼という事になる。

友人の車に乗せてもらう云々でもだいたい友達と出かける時って大抵はノープランでぶらぶらっとちょっと出かけたり美味しいものとか食べに行くもんじゃないの!?と僕は心の中で叫び

最後の言葉に関しては友人関係を破綻させかねない酷い言葉である。じゃあ何のための友達なんだよ、何のための友人関係なんだよ。そんなガチガチに縛られた形で会う場所を指定して会って、飲みに行くとか食事に行った時は奢る奢られるの関係にならない為に必ず割り勘、事前に前もって話し合って立てた計画以外での予定外の行動は許されず、挙句の果てに相手の事を100%信頼するな?ふざけてんのか馬鹿野郎!

 

母としては例えで言ったのかもしれないが、この時の僕はその言葉がまるであたかも僕の信頼していた友人がそんな事をするかもしれないと半分断定した友人に対する侮辱だと受け取った僕はは母に対する怒りが収まらなくなりブチ切れた。

どうやら母の思う友達の定義と僕の思う友達の定義は全然違うという事がよくわかった。少なくとも母の言う友達との交流の仕方はそんなの関係性としては他人の会社内交流の付き合いだとかそのレベルでやるべき事なのであって友人として接するやり方としては失礼極まりない。もちろん僕の思う定義だって間違ってるのかもしれないが少なくとも母の思う交流の仕方には些か疑問でしかない事が多すぎる。

母は何故僕にそういう事を押し付けたのか?母いわくそれは「社会の常識、一般常識として」との事なのだそうだが僕には全くと言っていいほど理解ができない。世の中の人がみんなそうだとでも言いたいのか?それは母が個人的に決めつけた定義なのであってその考えを僕に押し付けてるだけなんじゃないか?とまぁ色々と思うわけですよ。そしてそれを言ったんですよ。そしたら母は「あんたの言ってるやり方はね、非常識なんだよ!」との事、はぁ?ふざけるな、だったら俺は一生非常識で良いわ!

 

とまぁこんな感じで僕と友人を巡る友達関係としての交流の仕方にいちいちイチャモンをつけて僕と喧嘩をする日々...この時、母は僕がTwitterで出会った人との交流をすることに対して危ない事に巻き込まれるのでは...?という心配をしていてとの事だったらしいのだが、そういう心配をしてくれるのはありがたいが、だからといって何でもかんでも頭ごなしに僕の考えを否定して自分の考えを押し付けるのはただの強要なんじゃないのか?

 

友達との交流ひとつすらも簡単に取らせてくれない母親、僕が20を過ぎて成人超えたにも関わらずこんな事を言って来るんだから本当に毒親を極め始めてるとしか言いようがない。

 

  • 金が無くなって急場をしのがなければならない時に起きる大喧嘩の日々

言わずもがなだが僕は母に対して不信感しか抱いていない。そう思うまでに至ったのは喧嘩になった時に母が私に言い放つ罵詈雑言の悪口の多さだ。

母はお金が無くなるとヒステリックになる。そりゃあ家計簿もつけないから財務状況も分からない、タバコは吸いまくるしパチンコもする。きっちり支払わなければならない支払いを滞納する。そんなんじゃすぐお金がなくなるに決まってる。金にうるさい割には計画性がなんにもない母はいつも金銭面で家計が追い込まれることになる、そうなるとどうにかして金を工面しなければならない。そうするにはどうすれば良いのか?

当初は僕に「今働いてる職場の給料前借りできない?」と言われた、ふざけるなという話だし、当然聞いてみたけど速攻で断られた。だから僕にはどうすることも出来ない。すると母さんは決まって「じゃあどうすれば良いのよ!」と言い放つ。いやいやそんなの母さんだって思いつかない事を俺が思いつくわけないじゃん!

僕はこういうお金がピンチだとかそういうマイナスな話を聞くのが嫌なので正直あまり良い態度はしなかった。母さんの言うことに対する受け答えにも若干呆れの気持ちが入った返しをしていた。すると母さんは「何その態度、なんで私を責めるような言い方をするのよ!!!」と叫び俺に怒りをぶつける。その事に腹が立った俺は売り言葉に買い言葉で「責めてるとかそんなつもりないから!」と怒りながら返す。

こうなるともう手が付かない、俺からの怒りは母にとっての怒りにも繋がるようで、母は俺が親に対して怒った態度でいる事が至極気に食わないらしい、そして喧嘩をすると大抵「偉そうにしやがって!誰のおかげでここまで育って来てると思ってるんだ!えぇ!!?」と、自分が育ててやったんだという事実を俺に押し付ける様にぶつけてくる、それに対して俺は「そういう恩着せがましい言い方で俺に押し付けてくるんじゃないよ!」と言葉の応酬で返す、すると更に怒りの火にガソリンが入った母の怒りは大炎上、終始話し合いに決着はつかないままお互いに心労が祟るだけで終わる。

「誰のおかげで」「偉そうにするな」「自分勝手な野郎」「家族の問題なんだから無視するな」「自分一人だけ」もうそんな言葉は当たり前のようにぶつけられ、僕は正直怒り声のトーンと共に聞くだけでもストレスになるからもう耳穴を塞ぎたいぐらい不快極まりない。

いくら僕が反抗的な態度を取ってるのが気に食わないからと言って、そうやって僕に怒りの言葉をぶつけたところで僕の怒りに火がつくだけでなんのためにもならない。だから僕が話す事を拒否しても母は僕に罵詈雑言を浴びせかける。そういう母さんからの言葉が一時心のストレスに大きく影響していたことがあって、職場で何度もその喧嘩を思い出す度に吐き気を催してまともに仕事が出来ないほどに陥った事もあった。

 

昔は母親の怒りを鎮めるために僕が心折れて謝るしか無かった、しかし近年の僕は母親に対して素直に謝る事もできず、怒りの応酬で返す事しかしなくなってることで母親も僕に対して怒りを向ける。

どうしようもない状況になった時、僕は何よりも人に相談することを重要視していた。こういう生活困窮をしてしまった時のために相談する機関を使うのが良いんじゃないの?と僕は思っていたからだ。実際僕はストレスとなった出来事を担当支援員さんの人に話をするだけでも心のストレスが解消される。それだけでもとても有意義な意味のある行動だと見いだしていた。

しかし、当の母は「相談したらお金くれるの?相談したって相手はへーそーなんですねー、かわいそうですねー、親御さんとかに頼ることは出来ないんですか?とかって事務的な返ししかしないし、絶対そういうことを言ってきてなんの解決策も導き出してくれないよ!」と、相談機関に対するゴリッゴリの偏見に満ち溢れた意見を俺にぶつける事で相談という選択肢を自ら潰している

相談をすることに意味は無いわけじゃないと俺は思っている、例え直接的にすぐの解決が難しかったとしても確実な解決策を一緒になって考えてくれる人の存在ほど有難いものは無いはずだ。それなのに母はそんな相談機関に対して何の意味を見出すこともせず、ただただ自分の中の偏見だけで決めつけて人の言葉に耳を傾けようとしない。あの人はあくまでも自分と家族の力たけで何がなんでも解決したいと思っているようだそんなのできるわけが無い

三人寄れば文殊の知恵ということわざがあるが問題に対してひ一緒になってか考えてくれる人は4人でも5人も多くいればいるほど良い、僕はそう思ってる、なのにあの人はその事については全否定する。そりゃそりが合わないに決まってるわな!!!😡😡😡

 

今まで母に対しては従順だった僕ではあったが、今は本当に反抗な態度しか取れていない、多分僕の中であの人とまともに話ができるとは思っていないからであろう。実際本当にらちがあかずに喧嘩終わりするのが殆ど、近年は本当にそんなことばっか、もう僕と母親の関係性は破綻してるのでは?とも取れる状態だった。

 

最近Twitterで色々と怒りのツイートや愚痴を呟いていることで色々と心配させてしまっているのでいったい何が起きて喧嘩をしているのか簡単に説明しましょう

 

まず、光熱費を中心とした生活費の支払いに使っていたクレジットカードの支払い限度額が超過したので即座に超過分を払って欲しいと請求が来る。もしも払えないとなった場合はカードの契約を解除されてそれまでの限度額いっぱいプラス超過分で合わせて250万以上の借金を抱える事になってしまう

  ↓

その事に対して一日中悩み抜いた末に母はこの急場を凌ぐために僕に別のカード会社や金融機関を使って借金を更に抱えて急場をしのぎたいと提案

  ↓

去年も「ここを乗り切れなかったら首吊って死ぬようになる!」とヒステリックに叫ばれた結果、人生でこれだけは絶対に手出しをしたくなかったと決意していたはずの借金を今の職場の給料受け取りに使っている信用金庫から48万円を既に借りていた僕はこれ以上の借金は重ねたくないという事を理由に「絶対に嫌」とNoを突きつける

  ↓

「じゃあもう破産するしかないわね!」と怒りながら言い放った母は僕が借金したくないと拒否した事を「自分本位で自分勝手で自分の事しか考えてない行動」として受け取り、ブツブツと文句を言う

  ↓

その事に対して僕はなぜ借金をしたくないのかを理由に反論、しかし話し合いの折り合いは付かず

  ↓

最終的に破産申請をすることに決定

  ↓

翌日8日、「破産申請をしたら私もうなんにもお金を生み出す力も無くなるからこれでまたうちがピンチになったらあなたにも金融機関つ使ってもらうから」という言葉を言われ、僕切れる

  ↓

大喧嘩の末、家を出ていきたいと言う

  ↓

母「じゃあ私があなたを育てるためにかけてきた養育費とかのお金全部私に払ってよ!そしたら家出ていいわよ」とクソみたいな事を言う

  ↓

再び大喧嘩、最終的に「じゃあどうせ私がし死ね良いんでしょ!そしたら相続放棄すれば借金も背負わなくなるからあんたはのびのびと自由に暮らせるもんね!!!」と言い放ちこの話は終了、「ダメだこの人...」と思った僕は心のストレスでノイローゼになりかけながらもTwitterの使用や相談員への電話で心の安寧を保つ

 

とまぁこんな感じです。ここでまぁ色んな言葉で喧嘩しまくりまして、もう本当に年末近くになるとうちは地獄なんですわ...

こんな頭でっかちで思考が停止してる人と話しててもマジで意味が無いし、逆に僕のストレスが余計に増えるだけ、最近は本当に喧嘩が激しさを増しているので心理的ストレスは半端なくて...いつか心労で死ぬんじゃないか...?なんて思ってます...もうね、本当どうしたらいいんでしょう?こんな母親、よく一緒に過ごしてられるよなって自分でも思います。

 

今回の件に限っていえば母親は躁鬱、コロナ、足の骨折と働きたくても働けない状況に陥ってたから百歩譲ってそこは仕方ないにしても、弟は学校卒業して3年間ニート生活をやってたんだから収入が足りなくてと当然じゃないかと僕は思うわけですよ。

頑張って働いて得た僕の給料は10万ちょっと、しかも借金の返済分の引き落としがあるから手取りはもっと少なくなる。それとお父さんが亡くなった時に得た遺族年金だけじゃそりゃ家族3人の生活なんかやっていけるわけなかったんですよ。つまりこれは必然、なるべくしてなった出来事なんです。

そのことを僕がしょうがないと言えば「あなたしょうがないって簡単に言うけどね...!」ってしょうがない以外の言葉に他にどんな言葉があてはまるんだよ!しょうがない以外の何物でもないだろこんなこと!!!😡😡😡

 

まぁもうそんなこんなで色々あって僕は今怒りのブログを書いてるわけなんですはい。

 

この様に、最近の僕と母親は毎日のように激しい言い争いの末に僕だけが疲弊する日を過ごしてしまい最悪な一日になる。そういう喧嘩を迎えた後に年を越すという年々家庭環境が酷くなっていく事態になっているわけなのです。

こんなに酷い環境他にないと思うんですよ、もう本当にガチで出ていきたい...親元を離れて1人で暮らしたい...そんな事を毎日思うばかりです。

 

しかし僕と母とはある歪な関係で繋がってしまっているがために離れたくても離れられない事態になってしまっているのです。

 

恐ろしい共依存関係

共依存とはお互いがお互いの存在に依存してしまい、お互いの事で苦しい事が起きても結局相手の事を頼りきってしまうことで双方離れられない状況にある関係の事を共依存と言います。

結局僕がこういうことがあっても離れられない状態になってしまってる原因には幼い頃から母親とずっと一緒に育ってきた事による異常なまでの当初の恩と実家暮らしの快適さを知ってしまっているがために離れられない甘えが僕をそうさせてしまっているのだろうと思います。

母もまた日常生活に必要な買い物や用事といった物は僕に任せて行かせることも殆どだし、結局のところ僕の給料を母は当てにしている。だからどんなに大喧嘩をしたとしても母は出ていけ!とまでは言わないのです。そして先に書いた様に僕が出ていきたいと言うと逃げるだと罵ったりとか、無茶難題を押し付けて出ていかせないようにするのは何故か?

 

子離れが出来ないからです

 

今の僕を色んなところで頼りきっているからこそそこから離れていったら母はなんにも出来なくなってしまう。だから僕の事を離れさせたくないのでしょう。

 

それが共依存関係であり、おかしいという思いを強く持っている僕は何とか必死になって離れようとしているのです。

 

弟に対しても一言

そもそもこうなってしまった原因の一端には学校を卒業しても就職活動もせずに仕事をしなかったニートの弟にも原因がある。社員の定職につけなかったとしてもパートやアルバイトをして少しはお金を稼ごうとする人だっていっぱいいる、なのにあいつと来たら仕事を一切せず、バイトを探すことすらせず、家にぐーたらと過ごしているお前にだって責任はあるんだし、それを少しでも感じてはいないのか?あいつがスマブラSPを2000時間以上プレイ出来てるのはニートだからですよ。

 

最後に

ここまで色々なことをぶっちゃけて書いてきましたが、要するにお金を巡る話をすると僕と母は必ずと言っていいほど喧嘩になり絶望するとそんな感じなのでありますね。

今回はだいぶ怒りの気持ちを込めて書きました、おかげで2万字以上も書いてきたのにまだまだ書き足りない事がいっぱいあります!皆様も自分の親は毒親じゃないですか?大丈夫ですか?本当は真摯に向き合うのが一番なんでしょうけど、それが今の僕には出来ないです。

 

果たして今度の生活はどうなってしまうのでしょうか?それは僕にも分かりません。ただもうこんな人の元には暮らせないので世帯分離でもして1人で暮らす道を選ぼうと思います。あの人の意思に関係なくです。

 

皆様ここまで本当に長い事いっぱい読んで頂きありがとうございました!

今回はニホンバトのリアルを綴らせて頂きました!もう二度と書きません!(笑)

 

では!また次回の記事で!

*1:単に最軽度の知的障害だった僕は普通の人とほぼ同じように振る舞う事ができていたから一見すると分からなかったというのもあるかもしれないが

*2:けれど今思えばあの時のクラスメイト達はみんな僕がどんなに期間を置いて久しぶりに登校したとしてもおぉ〜!来た〜!と僕の登校をいつでも喜んで迎え入れてくれた素敵過ぎる人達だった。そんな人達に馴染めずに卒業してからの繋がりを残さなかった事は本当にあまりにももったいないことであり、僕の人生の大きな後悔のひとつでもある

*3:ちなみに卒業式も登校しなかった、ゲスの極みである

*4:実際、僕が入所した後地元の市は就労継続支援を異動するに当たって勤務実績の無い者は基本的に移行を受け入れないスタンスを取ったらしく、あと1、2年直談判が遅れていたら本当に入れなかった可能性が大だった。